歴史コラム | 第一講 中之島の橋(前編)

中之島の橋
第一講では、大阪の発展に欠かせない存在である「中之島の橋(西側)」について取り上げてみました。かつて「江戸の八百八町」・「京の八百八寺」とともに、「浪速の八百八橋」と、並称された水の都、大阪。
今は川が埋め立てられて、地名としてだけ残っているところも多くありますが、中之島付近には沢山の橋が現存し、中之島で暮らす2,000人の人々、そしてそこで働く5万人のビジネスマン達の、文字通り「架け橋」となっています

【今回ご紹介する橋】
錦橋(にしきばし)
肥後橋(ひごばし)
渡辺橋(わたなべばし)
玉江橋(たまえばし)
常安橋(じょうあんばし)

①錦橋

フェスティバルホールの袂にある歩行者専用のこの橋は、昭和 6 年に架けられました。 旧称は「土佐堀川可動堰」。橋の下には浄化用の水門があり、可動堰橋になっていたためそう呼ばれていましたが、 昭和60年、美装化整備が行われた際に「錦橋」と改名されました。
コンクリートアーチ構造のどっしりとした橋の上には、 江戸後期から明治初期の橋を描いた錦絵のタイル焼きが飾られ、中之島の歴史を偲ぶことができます。

 

錦橋

 

錦橋

②肥後橋

西区と中之島を結ぶ肥後橋。 江戸時代、肥後・熊本藩の蔵屋敷があったことから、当時の名残りある橋名となっています。 蔵屋敷とは、幕府や諸大名が、江戸や大阪などに設けた年貢米などを納めた 倉庫を兼ねた屋敷のことで、「天下の台所」とよばれた当時の大阪で大きな経済的役割を果たしましたが、 明治4年の廃藩置県以後、それら蔵屋敷は払い下げられました。明治18年、洪水で流れた肥後橋は3年後の21年、鉄橋として再建されました。 大正15年、スパニッシュルネッサンス様式の豪華なコンクリート製の橋が建造された後、 2度架け替えが行われています。現在のデザインは平成6年に改装されたものです。 移り行く時代の中で、何度も甦った肥後橋は、いまもなお人々や車の行き交う、活気ある様相を呈しています。

 

肥後橋

 

肥後橋

③渡辺橋

西梅田から中之島へのメインゲートとなる渡辺橋。古(いにしえ)より中之島・堂島の経済繁栄を支えてきたこの橋が 今の位置に架けられたのは江戸時代のことですが、さらに時を遡ると、平安時代から「渡辺橋」という橋が 存在していたとされています。
「渡辺」の名称の由来は、平安中期以降「渡辺の津」と呼ばれていた、現在の天満・天神橋付近とされており、その付近の橋の名を襲名したとも言われていますが、いつどこにその橋が架かり、そして朽ちたのかは定かではありません。明治 18 年の洪水で流された渡辺橋は、肥後橋とともにいち早く木橋から鉄橋へ架け替えられ、昭和 2 年には ネオルネッサンス様式の美しいアーチ型への橋へと変化を遂げました。現在の橋の形は、昭和 41 年に、肥後橋と殆ど同じデザインで作られたものです。中之島やその周辺のビジネス街の発展とともに、橋も段々と近代的になっていきました。

 

 

渡辺橋

 

 

渡辺橋

 

④玉江橋

風光明媚な景色が広がる、玉江橋から田蓑橋にかけての遊歩道。いくつもの近代的なオフィスビルを彼方にのぞむ両橋は、元禄時代、堂島開発によって架けられました。江戸時代、玉江橋の南には薬師堂があり、縁日の日には、沢山の人々で賑わっていたそうです。また当時の玉江橋は反りが大きかったため橋上からの見通しがよく、四天王寺の五重塔を見ることができたとされています。明治18年の大洪水で木橋を消失し、再度木橋で復旧されたものの、明治42年の大火災(北の大火)で焼け落ちました。この時は、およそ一万四千戸が消失したといわれています。昭和にはいって 2 度架け替えられ、平成3年には改装工事が行われました。平成20年には、京阪中之島線が開通し、この玉江橋付近に新たに「中之島駅」が出来ました。日々進化していく中之島で、変わらないのは川の流れだけかもしれません。

 

 

 

玉江橋

 

 

 

玉江橋

 

⑤常安橋

江戸では国(幕府)が橋をかけていましたが、大阪の橋は商人たちの手によって架けられました。 中之島にある蔵屋敷の物流をスムーズにするため、私財を投じて架橋したのだそうです。 常安橋は、中之島の開発に尽力したといわれる江戸時代初期の豪商、淀屋常安によって架橋されたと言われています。

 

常安橋

 

常安橋