歴史コラム | 第二講 中之島の橋

中之島の橋
前編では、中之島の橋の西部を取り上げましたが、後編では東部にある橋を紹介します。 登場する橋のほとんどが、駅名や地名にもその名がつけられているなじみ深いものばかり。特に、大阪の市街地を南北に結ぶ天
満・ 天神・難波橋の三大橋は、人々の生活にも密接に関わり、大阪の歴史とともに歩んできた長大橋です。

【今回ご紹介する橋】
淀屋橋(よどやばし)
栴檀木橋(せんだんのきばし)
難波橋(なにわばし)
天神橋(てんじんばし)
天満橋(てんまばし)

①淀屋橋
大阪市が実施した橋に関する意識調査で、大阪市民が最も魅力を感じている橋に選ばれた淀屋橋。地下鉄御堂筋線や京阪電車の駅名にも名付けられ、大阪で最も多くの人に利用されている橋です。 車道は現在、南行きの一方通行になっていますが、一日に走る車は約6万台以上、通行人は7万人を超え、地下鉄や京阪電車の淀屋橋駅で乗り降りする人は約20万人を数えます。
それほど人々に愛着を持たれている淀屋橋は、常安橋と同じく淀屋常安(じょうあん)によって架けられたとされています。常安は淀屋橋のたもとに米市場を開設し、さらに財を成したそうです。現在のユニークなデザインは懸賞募集によるもので、昭和10年に完成しました。

淀屋橋

="淀屋橋"

②栴檀木橋(せんだのきばし)
栴檀木橋は、江戸時代初期、中之島にあった蔵屋敷に行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところから名付けられたと言われています。当時、橋の上からは、生駒連山を背景に大坂城をのぞみ、天満・天神・難波橋の三大橋を眺めることができたそうです。
明治時代に淀川大洪水が発生したとき、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流されました。この橋が再びその姿を見せたのは大正3年。現在の橋は、北側にそびえる大阪府立図書館や中央公会堂といった歴史的建築物との調和を考えてデザインされました。橋詰には由来碑や大正時代の親柱、先代の橋の橋名板や栴檀の木のレリーフなどが展示され、橋の歴史が一目でわかるようになっています。

栴檀木橋

栴檀木橋

③難波橋(なにわばし)
名前に“難波”とありますが、この橋の最寄り駅は「北浜」駅です。橋の四隈の親柱の上に、阿(あ)と吽(うん)それぞれ2体の石造のライオン像が配置されていることから“ライオン橋”の愛称でも親しまれています。江戸時代は商都・中之島のシンボルだった難波橋。美しく反った橋からの眺望は優れ、周辺の橋や山々を眺めることができる絶好の行楽地となり、夕涼みや花火見物などの一等桟敷として賑わっていたそうです。
現在の難波橋は、土佐堀川・中之島公園・堂島川にまたがり、華麗な照明灯、中央の中之島公園へ降りる広い石造りの階段など、都市景観の創造が図られた設計がされています。

難波橋

難波橋

④天神橋(てんじんばし)
天神橋の歴史は古く、秀吉の時代に架けられたと伝えられ、当初“新橋”と呼ばれていましたが、天満天神社が管理することから次第に天神橋と呼ばれるようになりました。

天神橋は、上町台地と大坂の北部を結ぶ点でとても重要な橋でした。橋が大坂にとっていかに重要だったかは、天保8年に大塩平八郎の乱を知った江戸幕府が、いち早く三大橋(天満橋・天神橋・難波橋)を切断し、反乱軍を防ごうとしたことからも分かります。

現在の天神橋は、低めのアーチが周りの風景と溶け合い、水都・大阪の代表的な景観を形造っています。天神橋を北上すると、日本一長い商店街として有名な「天神橋筋商店街」の一丁目に繋がります。 

天神橋

天神橋

天神橋

⑤天満橋(てんまばし)
江戸時代の天満橋は、公儀橋に指定され、幕府が直轄管理していました。橋の南側には東西の町奉行所が、北部には役所の倉庫や町与力の屋敷があったことから、これらの役人の通勤や役所間の連絡に使われていたと考えられ、官の性格が強い橋だったといえます。

天満橋は明治18年の大洪水によって流失した後、鉄橋に架け換えられました。現在の天満橋は昭和10年に架け換えられたもので、天神祭の花火や造幣局の桜の開花時期は、絶好のビューポイントとして大勢の見物客で賑わっています。また、天満橋の上には高速道が造られ、現代的な雰囲気をたたえています。

天満橋

天満橋