歴史コラム | 第四講 中之島の旧町名

中之島の歴史をご紹介する「中之島の歴史」。本講では、中之島エリアの旧町名を取り上げます。江戸時代の中之島は諸藩大名の蔵屋敷として発展し、商業の中心として栄えてきました。それぞれの町が中之島でどんな歴史を刻んできたか、その周辺を取り巻くエピソードとともにご紹介します。

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※ 端建蔵橋は明治 42 年(1909)に架設されました。

中之島の旧町名
中之島東部

(1))上中之島町 (かみなかのしまちょう)〔現・中之島一~二丁目〕

中之島の東部が築地を増したのは明和 4 年頃(1767 頃)のこと。それまでは現在の中之島公会堂辺りまでが東端でした。当時、この辺りは備中成羽藩・山崎家の蔵屋敷があったことから俗に「山
崎の鼻」と呼ばれていました。築地後、“鼻から鼻を出す”という駄洒落から「かぜひき新地」とも呼ばれたこの地は、観月などで賑わう景勝地だったそうです。そして、その西側に位置したのが上中之島町。ちなみに、この東端が現在のように天神橋まで延び、公園として拡張されたのは大正期に入ってからのことです。

中之島の旧町名
肥後橋附近

(2)肥後島町 (ひごじまちょう) 〔現・中之島二丁目〕

江戸時代、肥後橋の北詰に肥後(熊本)藩の蔵屋敷があったことから、この辺りを肥後島町と呼んでいました。この町には、かつて枝ぶりがユニークな老松がありました。「丈余の松ヶ枝はあたかも一は手をのべて物を売らんとするが如く、一は手を屈めて、物を買おうとするが如く、市場の振り手に似て、しかも旧堂島米市場と大川を隔てた南真向かいにあった」(宮本又次 著「キタ」より)ことから「売買の松」と呼ばれていたそうです。この松は肥後藩の名将・加藤清正の遺物といわれていますが、残念ながら現在その姿は残っていません。

中之島の旧町名
宗是町

  
(3)宗是町 (そうぜちょう) 〔現・中之島三丁目〕

江戸時代の町名は、その土地にゆかりのある人名に由来したものが少なくありませんでした。宗是町も、江戸期の両替商・千種屋の縁者といわれる早川宗是という人物が開発したことに由来すると伝えられています。宗是町には町家もあったものの大部分は松平伯耆守、因幡鳥取の蔵屋敷が占めていました。屋敷跡はその後、現在のダイビルの敷地となっています。

中之島の旧町名
田蓑橋北詰の「蛸の松」

(4)常安町・常安裏町 (じょうあんまち・じょうあんうらまち) 〔現・中之島四~六丁目〕 土佐堀川に面して東西に延びた常安町は、その名のとおり豪商・淀屋常安が開発したことから名づけられました。この常安町と背中合わせに位置していたのが常安裏町です。北の玉江橋と南の常安橋をつなぐ常安橋筋(現在の「なにわ筋」)の賑わいは、明治以後、商店街が少なかった中之島にあって最も永くその面影を残していたそうです。また、当時の堂島川沿いには各藩自慢の松が植えられていました。中でも常安裏町沿い、堂島川のほとりの久留米藩と広島藩の境の浜の松は、その枝ぶりが蛸(たこ)の泳ぐ姿に似ていたことから「蛸の松」と呼ばれる名木でした。現在、対岸の田蓑橋北詰には、かつての風趣を偲んだ「蛸の松」が再現されています。

中之島の旧町名
端建蔵橋

((5)湊橋町 (みなとばしちょう)
〔現・中之島六丁目〕 中之島の西端もかつては今より東側にありました。元禄元年(1688)に湊橋が架けられ、新たに開発された西側は湊橋町となりました。享和年間(1716~36)になるとこの町のさらに西側に築地がなされ、土蔵造りの家が建ちました。和泉屋七兵衛という人物が建てたと伝えられるこの建物は、彼が冬の朝でも裸足で、廃物をもらい集めて商売し、ついには大阪屈指の長者となったことから「はだし蔵」と呼ばれたそうです。中之島から川口に向けて架けられている端建蔵(はたてくら)橋は、この「はだし蔵」にちなんでつけられたとも、中之島の西端に蔵が建てられたからともいわれています。また、端建蔵橋は宮本輝の小説「泥の河」にも登場しています。


参考文献
「大阪の町名」(大阪町名研究会 編)清文堂出版
「大阪府の地名I」(平凡社地方資料センター 編)平凡社
「キタ -風土記大阪-」(宮本又次 著)ミネルヴァ書房
「『中之島』今昔(むかしといま)」(蒲田建三 著)