各時代の中之島 | 江戸期の中之島


物流・金融・情報で、創意工夫が息づく中之島

江戸期の中之島は、全国から米を始め珍奇な物資が集まり、売買される活気に満ちた場所であった。モノの集まるところに、ヒト・チエ・情報が集まり、大阪商人達は新たなビジネス・スキームを編み出していく。

江戸時代の中之島各藩の蔵屋敷は、いずれも舟入(入掘)を設け、蔵元からの舟を横づけにして荷物の陸揚げ・積込みを行なった。玉江橋のたもとには久留米藩の蔵屋敷があり、入掘に架けられた橋は久留米橋と呼ばれた。他にも熊本橋、高松橋、鳥取橋など、その藩の「舟入」に架けられた橋があった。
江戸時代の中之島
明治初期まで残っていた旧鍋島藩蔵屋敷。船が積み荷のまま入れる入掘口が右に写っている。(*1)
江戸時代の中之島
久留米藩の舟入り風景(*2) 
江戸時代の中之島
旗振り通信(*3)


暗号化とリアルタイム発信:旗振り通信


「一手に千両の花が咲く」と言われた堂島米市場では、古くから「旗振り通信」の商習慣があった。畳半畳ほどのサイズの旗を使い、米市場の動きを暗号化してリアルタイムで発信する仕組みである。中継地をつくって、大阪から京都や姫路などへ発信。その速度と正確さは、なかなかのもの。後年(明治24年)、ロシア皇太子襲撃を報ずるのに、政府の電報は暗号化に手間取り数時間を要したが、旗振り通信は 10 分とかからなかったというエピソードがある。

 

 

江戸時代の中之島 


近代倉庫の草分け:蔵屋敷
 

全国第一の物資集散市場であった大阪において、最たるものは年貢米の集積。大阪で諸藩の米の保管・売却にあたるのが蔵屋敷であり、その多くは中之島に集中していた。秋に収穫が終わると、大阪に積み送る。外航船で港に届き、そこから上荷船・茶船という10~20石の小船で中之島の蔵屋敷に届く。渡辺橋から西は、蔵屋敷の瓦ぶきの土塀が並んでいた。米の他にも、土佐藩のかつを節、福山藩の畳表、徳島藩の藍玉など、全国の珍しい物資が集まり、華やかな活気に溢れたいた。
蔵物の売買は町人が請け負い、町人蔵元と呼ばれていた。町人蔵元は、自ら輸送手段、保管手段を持ち、蔵物の売買を委託され、自己の責任で損益を負担する。多機能型近代倉庫の草分けと言えよう。蔵屋敷の機能
・領内の非自給物資(高級衣料品、美術品、武具など)の調達
・蔵物の売却
・資金調達

江戸時代の中之島 中之島 蔵屋敷(*4)

 

 

江戸時代の中之島 堂島 立ち合い
堂島の立ち会い(*5)


 

近代金融技術の萌芽:米切手と帳合取引

米の売買は、蔵屋敷に仲買人を集め入札制度で行なった。「米切手」や先物取引の性格を持つ市場流通性の高い「先納切手」、米価変動のリスクをヘッジする「帳合取引」など、近代的な金融技術の原型が次々に生まれ、大阪に安定した米殻商業機構をつくる牽引役となった。全国の米関係者は、将来の米価の動きを予測するために、大阪の帳合米価格から目を離せなくなっていった。

◆掛屋
米の出来高は変動が生じるが、藩の固定費は一定。これをならすために、大名への短期貸付を行なう。大名貸しであるが、不良債権の性格はない。
◆米切手・先納切手
米を落札すると米切手をもらい、現物にかえる。当初は倉荷証券のようなものであったが、性格を変え、不特定の米10石を、いつでも持参人に引き渡すことを約する商品切手のようになった。先納切手は、落札者・日付が記載されていない切手。より流通性が高い。
◆切手の資産化
米切手は、罪科を問われて幕府に財産没収される場合でも、除外財産に含まれる。また、不渡り時には幕府が買い上げてくれる。貨幣交換価値が高く、当時における良質の資産であった。米切手の転売が多くなり、入札から現物引き渡しまでの期間も長くなり、一種の先物取り引き機能も持つようになった。
◆帳合取引
米切手を正米取り引きで買い、同時に先物取り引きで売りを立てておけば、米価が高下しても損益を相殺できる。こういったリスクヘッジの手法を帳合取引と呼んだ。
◆両替屋
投機目的の売買に信用を供与する。証券金融会社的な機能を発揮。

 


出典

※1 「中之島誌」(中之島尋常小学校創設65周年/中之島幼稚園創設50周年記念回編集)
※2   同 上
※3 「大阪春秋」 13号
※4 「大阪まち物語」 なにわ物語研究会 編
※5 「大阪春秋」 13号

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