八軒家の船着き場

八軒家浜
石段上ったところに昔は宿屋が並んでいたとのこと。
中之島界隈を歩いていて、この古いビル素敵だな、とか歴史がありそうなこの建物はなんだろうと思うことはしばしばあります。
逆に普段何も思わずに利用している道沿いの建物が、実はとても有名な建物だった、ということもよくあります。例えば北浜の適塾や会社の近所にある大阪教会など、ネットで検索してみるとたくさんの情報がヒットします。中之島界隈の史跡について特集したサイトや、中之島に架かる橋について詳細に書かれたページ、街中に点在する石碑について説明されたページ・・・。

たぶんこの仕事をしていなければ気にも留めなかった建物のかたわらの石碑。まして歴史がニガテな私にとってそれはただの石です。なにか歴史的事項に思い当たる訳もありません。
天満橋駅の近くを歩いていたときに見つけた「熊野かいどう」と書かれた石碑、これ自体は平成二年に建てられたものですが、どうやらこの南へ延びる道がかつて熊野へ詣でるルートであったことを示すもののようです。

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この石碑がある場所が熊野街道の始点でした。

まだこの時は、私の頭の中であの世界遺産に登録された熊野古道とは結びついておらず、まさか和歌山のものとは関係なかろうと思っていました。
ところが後で調べてみると、ここがその熊野古道の始点であるということが明らかとなり、知ってる人にとっては常識かもしれませんが、私としてはかなりの驚きでした。まさかここから和歌山のあんな遠くまで歩くなんてことは想像できません。
昔はみんな、大変な思いをして旅をしていたんですねー。

さらに、この石碑から少し西に行ったところ、有名な昆布屋さんの前にある石碑もこの熊野街道と繋がりの深いもののようで、京都の皇族や公家たちは、淀川を半日ほどかけて下り、この「八軒家船着場」から上陸し、熊野へ向かったとのことです。

その後、室町時代以降は庶民がこのルートを利用するようになり、その人々が途切れることのないさまを指して「蟻の熊野詣」と例えられるようになったといいます。

八軒家浜
昆布屋さんの店先。八軒家に関する冊子も配布されています。
江戸時代にはかなり栄えていたようで、「三十石船」という乗合船が多く利用されていたようです。
船着場まで出て商売をする人や船宿へ客を呼び込む人、荷物をたずさえて船を下りる人、お客さんの荷物を積み込む船頭、馬や犬・・・。賑やかに行き交う様子を描いた画も多く残されているようです。その「八軒家船着場の跡」がある昆布屋さんが、無料で発行している冊子にも有名な当時の画がたくさん載っていました。例えば、安藤広重の「八軒家船着場の図」や、竹原信繁の「八軒屋」など、

その当時、この場所にこんなにもたくさんの人が行き交っていたんだと思うととても楽しい気分になります。

川を下る途中、枚方のあたりで物売りの「くらわんか舟」が三十石船に横付けし、餅や酒などを売りつけている様子を描いた画もあり、当時の人々の旅の様子を知ることができます。

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ここが坐摩神社行宮。当時は熊野へ向かう人々でにぎわっていたことでしょう。

森の石松の「鮨食いねえ」と掛け合う場面や、「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんのふたりもこの三十石船を利用する場面がでてくるらしいです。
ちなみに、この「八軒家」という地名は、昔ここに八軒の船宿があった、または川に沿って八軒の民家があったことからきたとの説があるようです。その昆布屋さんを少し西へ行ったところに、なんとなく風情を感じる石段が見えます。これも初めはその程度にしか思っていませんでしたが、どうやら当時はこの石段を使って船着場から通りへ上がっていたようです。ということは、このあたりまでは川岸だったんでしょうか?
実際には、船着場は今の天満橋駅の裏側あたりだったとのことなので、あくまでも想像ですが、水位や地形など、今とはずいぶん違ったのかもしれませんね。

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熊野かいどう碑がある道。この道をずっと南下すると熊野へ辿り着きます。
話は逸れますが、幕末の新撰組が常宿として利用していた「京屋」もこの石段を上ったところにあったそうです。
そしてさらに西に向かい、エルおおさか手前の道を左に入ったところに坐摩神社行宮(窪津王子跡)があります。行宮とはお旅所のことらしく、ここには熊野の神々が祀られた九十九王子の第一、窪津王子で、人々はここを休憩所として利用していたようです。ここから次へ、また次へとおよそ百箇所ある王子を道しるべとして人々は熊野への旅を進めていったのです。
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