ぐるり西天満

爽やかな秋の風が心地よく、おでかけが楽しい季節になりました。今日の散策は、中之島界隈でもとりわけ落ち着いた雰囲気を漂わせる西天満エリアを歩いてみたいと思います。
ぐるり西天満
まずは、西天満の顔ともいえる大阪高等・地方・簡易裁判所からスタート。外観はこじんまりとしたビルが並ぶ界隈で貫禄たっぷりの存在感を放っています。今年5月から裁判員制度が実施され、私たちの暮らしにぐっと身近になった司法。裁判所というと一見敷居が高そうですが、実は誰でも自由に裁判を傍聴することができるし、地下には食堂や売店などもあって、予想以上に親しみやすい雰囲気でした(もちろん来庁者も利用可能です)。ニュースでしか知らない裁判、一度傍聴してみてはいかがでしょうか?
(建物の内部は撮影禁止でした)
ぐるり西天満
ぐるり西天満
裁判所の近くに佇むレトロビル、大江ビルヂングへ立ち寄ります。この辺りをすれ違う背広姿の方は、なぜかみなさん姿勢よく颯爽と歩いていらっしゃるのが印象的でした。
1921(大正10)年竣工の大江ビルヂングは、大正時代のモダンと和を融合させたユニークなデザインで知られる建物。以前散策した中央電気倶楽部の設計者である葛野壮一郎氏が手がけています。場所柄、弁護士事務所や法律事務所などのオフィスのほか、ギャラリーやショップも入居しています。

ここから西天満のメインストリート、老松通りの西側入口へ向かいます。東西にのびる老松通りは大阪天満宮の表参道として栄え、現在も天神祭の陸渡御ルートとなっている由緒正しい通り。かつて東海道・山陽道から大阪に入る旅人は、曽根崎天神を通って老松通りから天満宮へ向かったそうです。通りの入口には、明治時代の御堂筋に建てられていた天満宮への道しるべが静かに佇んでいました。

老松通りの道筋にはギャラリーや古美術商、昔ながらの喫茶店が連なっています。のんびり歩いていると「gallery & books edge」の前で制作中のアーティスト田中拓馬さんに出会いました。現在関東で活動中の田中さん、今回大阪で初めて個展を開くため西天満にいらっしゃったそうです。透明のビニール傘に描いているのはなんと、うどん! すぐそばにあったうどん屋さんにインスパイアされたそうですが、開いた傘は確かに上からどんぶりをのぞいているみたい。それを作品にしてしまうなんて本当にワクワクしました。ちらりと見えた赤色は「ちょっと奮発してエビ」だそうです。

ぐるり西天満
ぐるり西天満

キョロキョロしながら歩くうちに、気がつけば老松通りの東端。ここから中之島方面に南下します。裁判所を右手にまっすぐ歩いていると出くわすのが鉾流橋。この橋は天神祭の宵宮で鉾流神事(ほこながししんじ)が行われる場所。橋畔で神鉾を持った神童が斎船で堂島川にこぎ出し、船上から神鉾が流され、天神祭の無事と安全、浪速の繁栄が祈願されます。橋のたもとには鉾流斎場の鳥居も鎮座。橋の上から眺めた夕暮れの中之島は、ほんのりオレンジ色にそまっていました。

鉾流橋を渡ると最後の目的地、大阪市中央公会堂に到着。この辺りは京阪なにわ橋駅ができたり、中之島公園が整備されたりして、近年美しく生まれ変わりました。夜はライトアップもされるし、デートスポットの穴場ですよ!

ぐるり西天満
1918(大正7)年に竣工した大阪市中央公会堂は、赤レンガの壁と青銅のドーム屋根が印象的なネオルネッサンス様式の建物。国の重要文化財に指定されています。開業当初から芸術・文化の発展にかかわってきた公会堂は、現在も講演会やコンサート、ブライダルなどさまざまな形で利用されています。
今日は、そんな公会堂の裏側がのぞけるというガイドツアーに参加しました。このツアーでは、公会堂の歴史や装飾などの見どころをスタッフの解説を交えながら、ふだん非公開の室内を見学することができます。
まず見学したのは、荘厳な雰囲気が漂う大集会室。ステージや2階席から客席を見下ろすなど貴重なアングルから客席を眺めました。舞台の横には金箔(本物!)仕立ての果物をモチーフにした彫刻も間近で見学。当時の観客席も保存されており、帽子が収納できるようになっている椅子からは当時のファッション事情も垣間見えました。
ぐるり西天満
ぐるり西天満
ヨーロピアン・スタイルの中集会室、ノスタルジックな雰囲気を持つ小集会室を経て到着したのが特別室。当時貴賓室だったというここは、四方はもちろん天井まで見どころ満載でした。
天井画には、日本書紀の中から「天地開闢(かいびゃく)」が、壁画の北側には商売の神「スサノオノミコト」が、南側には工業の神「フトタマノミコト」が描かれ、ステンドグラスがデザインされた窓には、鳳凰と大阪市の市標「みおつくし」がデザインされています。ステンドグラスは絵画を守るため凸レンズで光を乱反射させる仕組みになっているそう。どの部屋も観るほどに上品かつハイカラ。公会堂が当時の大阪のトレンドを担っていたに違いありません。これらのお部屋は誰でも借りることができるそうです。1Fには中之島倶楽部もありますし、クラシカルな雰囲気の中での集うのも楽しいのではないでしょうか。
ぐるり西天満
今日の散策はこれでおしまい。
西天満エリアに漂っているのは、古きよき昭和の風情。お隣に北新地があるとは思えないのんびりとした雰囲気がすっかり気に入ってしまいました。路地裏には個性的な飲食店も点在していると聞いたので、また近いうちに歩いてみたいと思います。
公会堂のすぐそばにある「みおつくしプロムナード」の木々は少しずつ紅葉が始まり、中之島も冬支度が始まったようです。光のルネサンスも、もうすぐだなあ。
(2009年11月に取材・掲載した記事です)
◆大阪高等・地方・簡易裁判所
所在地
大阪市北区西天満2-1-10
問い合わせ
06-6363-1281(代)
◆大阪市中央公会堂
所在地
大阪市北区中之島1-1-27
問い合わせ
06-6208-2002(代)

上方落語の舞台を歩く

江戸時代、上方文化が花開いた大阪。中之島界隈にも上方落語の舞台になった場所がいくつもあります。今回は、そんな落語にゆかりのある場所を歩いてみたいと思います。
上方落語の舞台を歩く
上方落語の舞台を歩く大阪天満宮 上方落語の舞台を歩く 大阪繁盛亭

まず初めに向かったのは大阪天満宮。ここは、古典落語「初天神」の舞台となりました。「初天神」の“天神”とは、菅原道真公のこと。その道真公が祀られている天満宮の新年最初のご縁日(1月25日)だから「初天神」というわけです。

「初天神」
天神さまへお参りに出掛けようとする熊。その姿を見た息子の寅が、一緒に連れて行ってくれとせがみます。あんまり騒ぐので、仕方なく連れて行くことに。ところが寅、出掛ける前に何も買わないと約束したのに駄々をこね、結局、露店で飴やダンゴを買ってもらいます。お参りを済ませ、今度は親子で凧あげをすることになりました。どこまでも高くあがる凧に、今度は父親の方が夢中に。その様子を見た寅は・・・。

お正月によく披露されるというこの噺。当時の天神さんも、たくさんの参拝客で賑わっていたのでしょうね。現在、大阪天満宮の北側には関西唯一の落語の定席天満天神繁昌亭がオープンし、ますます活気にあふれる一帯となっています。

日本銀行大阪支店
大阪天満宮からまっすぐ南下すると堂島川に出ます。その川岸に広がっているのが南天満公園。川沿いにテニスコートや遊歩道が整備され、テニスやジョギングする人の姿もありました。川を挟んだ向こう側には、美しく整備された八軒家浜が見えます。さて、この地にまつわる噺とは――。

「千両みかん」
季節は夏。ミカン欲しさに病に臥した船場の若旦那。ミカンを見つけ出さなければ死刑と大旦那に脅され、番頭は市中を必死に探します。奇跡的に見つかったミカンですが、商売人の言い値はなんと千両。背に腹は変えられぬと大旦那はそれを買い与え、若旦那は快復します。そして番頭は、残りのミカンを持って雲隠れ・・・。

当時はハウス栽培などありませんでしたので、時期はずれのミカンを探し当てるのは大変だったでしょうね。千両は今の価値でいうと、一千万円か一億円か・・・とにかく、ケタ違いの大金だったことは確か。貴重なのは分かりますが、千両はあんまりです。

さて、番頭さんがミカンを買いに出かけたのが天満青物市場。現在の南天満公園の位置にありました。公園の一角には市場跡の碑が建てられています。堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで三大市場のひとつとされ、青物(果物・野菜)の取扱を独占したこの市場は、大阪市中央卸売市場の設立(昭和6/1931年)に伴う廃止まで栄えていたそうです。

難波橋

ここからは堂島川に沿って西へ進み、難波橋を目指します。橋のたもとにライオンが鎮座することから“ライオン橋”の別名で親しまれるこの橋も、愉快な落語の舞台となっています。

「遊山船」
ある夏、花火見物のため難波橋に来た喜六と清八。大川をゆく遊山船を冷やかします。そこへやってきたのが、錨(いかり)模様の浴衣を着た賑やかな稽古屋連中。清八が「さても綺麗な錨の模様!」と声をかけると、舟から「風が吹いても流れんように」と粋な返事。感心した二人でしたが清八は「お前のかみさんにはとても言えんだろう」と言います。そこで喜六は家に帰ると、押入れにあった汚れた錨模様の浴衣を女房に着せ、舟のかわりに盥(たらい)の中に座らせ、天窓の上から「さても汚い錨の模様!」と声をかけました。すると女房が一言「質に置いても流れんように」。


行楽客で賑わう難波橋のタイル画
江戸時代以降、難波橋・天神橋・天満橋は、幕府が管理する公儀橋となり、市民の生活にも深く関わっていたことから浪華三大橋と呼ばれていました。反りのあった難波橋からの眺望は特に優れ、大川の花火見物や夕涼みなどの一等桟敷となったそうです。花火が夜空を彩るなかで人々が興じている光景は、現代の天神祭でも同じですね。難波橋の中央部には、行楽客で賑わう難波橋のタイル画が展示されていました。また「船弁慶」も難波橋を舞台にした落語。こちらも喜六さんと清八さんが登場します。
難波橋を後にして、さらに西へと進み、堂島までやってきました。江戸時代の堂島といえば、堂島米市場。この辺りは、諸藩の特産物や年貢米を販売・保管するため、倉庫と屋敷を兼ねた諸大名の蔵屋敷が建ち並びました。ここを舞台にした落語が「米揚げ笊(いかき)」です。


「米揚げ笊」
仕事もせずにブラブラしている頼りない男が、丼池の甚兵衛の紹介で天満源蔵町の笊屋、十兵衛に雇われ、笊売りを始めます。けれど生来の気質もあって、なかなか思うように商売することができません。そんなある日、「大マメ、中マメ、小マメ、米揚げ笊」という売り言葉が米相場師の主人に気に入られ、商売がトントン拍子に進んでいきます。ところが・・・。」。

「米揚げ笊(いかき)」とは研いだを水から揚げ、水切りに使うザルこと。米の相場師は、絶対に“下げる”という言葉を使わないので、“米をあげる”という男の言葉に気分をよくしたのです。ゲンを意識する商人と笊売りとの掛け合いが楽しい噺ですね。

米相場は大名家の浮き沈みにかかわり、値段の上下に一喜一憂しました。相場師は一夜にして大金持ちになることもあれば、逆に大損してしまうこともある。そこには船場の商人とは違った男伊達、豪快な気質があったといわれています。そういえば、あの淀屋橋や常安橋を架橋した淀屋常安もこの時代の豪商。彼らのような人のことを、本当のお金持ちというのかもしれません?!

米市場跡
堂島川にかかる中之島ガーデンブリッジの北詰に、先物取引発祥の地として堂島米市場跡の記念碑が建てられていました。稲穂を持った童子像の下には図案化された“濱”の文字が。この一文字が施された紋付は当時の堂島の権威そのもの。これを着ていくだけでお茶屋も料亭も扱いが違ったそうです。

「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は舟中にあり」と謳われた当時の大阪。天満青物市場や堂島米市場が川沿いにあったことは、ヒト・モノ・カネが集まる経済の中心・大阪で水運が大きな役割を果たしていたことを物語っています。実際に歩いて、それを肌で感じた今回の散策は、まるで江戸時代の中之島を歩いているような気分になった散策でもありました。

(※2008年10月に取材・掲載した記事です。)

参考図書
浪花なんでも地名ばなし/桂米乃助 著/コア企画出版
米朝ばなし 上方落語地図/桂米朝 著/毎日新聞社
上方落語/笑福亭松鶴 著/講談社出版研究所

大阪最古の洋風建築「泉布館」を訪ねる

ようやく冬の寒さが緩み、三寒四温を肌で感じるこの頃。いよいよ春近し、というわけで今日は、毎年春季のみ一般公開となる「泉布観(せんぷかん)」を訪ねることにしました。
泉布館
泉布館
大阪のお花見の名所といえば「桜の通り抜け」で知られる造幣局ですが、その造幣局の近くにひっそり佇んでいる白い洋館が泉布観です。「泉布観」の一般公開は毎年、春分の日前後に行われますが、今回は特別に、一般公開前に見学させてもらえることになりました。
明治初期の桜ノ宮一帯は、大阪豪商の舟遊びの地だったそうですが、明治政府は大川に面したこの地に、新しく近代的な造幣寮(現在の造幣局)を建てました。造幣寮は貨幣の製造のみならず、化学・機械といった近代産業や、洋装・ザンギリ頭など近代文化の先駆けとなった土地。大阪の文明開化はここから始まったといってもよいかもしれません。
泉布観は明治4年(1871)、造幣寮の応接所として建てられた、現存する大阪最古の洋風建築です。泉布観の「泉布」は「貨幣」、「観」は「館」という意味で、明治天皇が行幸した際に天皇自身によって命名されました。明治初期の洋風建築の特徴を色濃く残すこの建物は、昭和31年(1956)という早い時期に、国の重要文化財に指定されています。
泉布観の設計は、造幣寮の全施設や東京・銀座の煉瓦街などを設計し、明治初期の日本の洋風建築の歴史に貢献した人物として知られるアイルランド出身の技師、トーマス・J・ウォートルスが手がけました。設計者が西洋人とはいえ、ザンギリ頭と髷(まげ)がまだ入り混じっていた時代、建設に携わった日本の工匠たちの苦労がしのばれます。

建物の主な特徴は、煉瓦造(れんがぞう)であること、建物の周りにヴェランダをめぐらした「ヴェランダ・コロニアル」形式であること、内部は天井が高く、ガス灯時代の照明器具が使われていることなどが挙げられます。2階からは直接ヴェランダに出ることができ、トスカナ式と呼ばれる太い柱とともに、異人館のような雰囲気を醸し出しています。東側のヴェランダからは、木立の向こうに大川を望むことができました。

室内でとくに印象的だったのが、2階北西室。楕円形の大きな鏡がデザインに組み込まれた暖炉が存在感たっぷりに鎮座しています。それから、ペンキで描かれた床の市松模様にも目を奪われました。これはタイルが高価だった当時、その憧れを表したものといわれています。

泉布館
泉布館
泉布館
泉布館
泉布館
泉布観のすぐそばには、明治4年(1871)に完成し、国の重要文化財に指定された「旧造幣寮鋳造所正面玄関」があります。こちらも泉布観と同じ、造幣局建築のひとつで、造幣寮の中心建築物であった鋳造場の玄関を移築したものです。泉布観の公開時期には、この建物の外観もあわせて見学することができます。

造幣局や泉布観のそばに架かる桜宮橋(銀橋)から天満橋までの南北は毛馬桜之宮公園で、これからの季節、絶好の散策ルートになります。早春の風とともに楽しめる「泉布観」見学、みなさんもいかがですか?

※一般公開は、例年3月の3日間程度。詳細はお問い合わせください。
(※2008年3月に取材・掲載した記事です。)
泉布館
住所
大阪市北区天満橋1-1-1
TEL
大阪市総合コールセンター なにわコール(年中無休 8時から21時まで)電話番号:06-4301-7285

八軒家の船着き場

八軒家浜
石段上ったところに昔は宿屋が並んでいたとのこと。
中之島界隈を歩いていて、この古いビル素敵だな、とか歴史がありそうなこの建物はなんだろうと思うことはしばしばあります。
逆に普段何も思わずに利用している道沿いの建物が、実はとても有名な建物だった、ということもよくあります。例えば北浜の適塾や会社の近所にある大阪教会など、ネットで検索してみるとたくさんの情報がヒットします。中之島界隈の史跡について特集したサイトや、中之島に架かる橋について詳細に書かれたページ、街中に点在する石碑について説明されたページ・・・。

たぶんこの仕事をしていなければ気にも留めなかった建物のかたわらの石碑。まして歴史がニガテな私にとってそれはただの石です。なにか歴史的事項に思い当たる訳もありません。
天満橋駅の近くを歩いていたときに見つけた「熊野かいどう」と書かれた石碑、これ自体は平成二年に建てられたものですが、どうやらこの南へ延びる道がかつて熊野へ詣でるルートであったことを示すもののようです。

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この石碑がある場所が熊野街道の始点でした。

まだこの時は、私の頭の中であの世界遺産に登録された熊野古道とは結びついておらず、まさか和歌山のものとは関係なかろうと思っていました。
ところが後で調べてみると、ここがその熊野古道の始点であるということが明らかとなり、知ってる人にとっては常識かもしれませんが、私としてはかなりの驚きでした。まさかここから和歌山のあんな遠くまで歩くなんてことは想像できません。
昔はみんな、大変な思いをして旅をしていたんですねー。

さらに、この石碑から少し西に行ったところ、有名な昆布屋さんの前にある石碑もこの熊野街道と繋がりの深いもののようで、京都の皇族や公家たちは、淀川を半日ほどかけて下り、この「八軒家船着場」から上陸し、熊野へ向かったとのことです。

その後、室町時代以降は庶民がこのルートを利用するようになり、その人々が途切れることのないさまを指して「蟻の熊野詣」と例えられるようになったといいます。

八軒家浜
昆布屋さんの店先。八軒家に関する冊子も配布されています。
江戸時代にはかなり栄えていたようで、「三十石船」という乗合船が多く利用されていたようです。
船着場まで出て商売をする人や船宿へ客を呼び込む人、荷物をたずさえて船を下りる人、お客さんの荷物を積み込む船頭、馬や犬・・・。賑やかに行き交う様子を描いた画も多く残されているようです。その「八軒家船着場の跡」がある昆布屋さんが、無料で発行している冊子にも有名な当時の画がたくさん載っていました。例えば、安藤広重の「八軒家船着場の図」や、竹原信繁の「八軒屋」など、

その当時、この場所にこんなにもたくさんの人が行き交っていたんだと思うととても楽しい気分になります。

川を下る途中、枚方のあたりで物売りの「くらわんか舟」が三十石船に横付けし、餅や酒などを売りつけている様子を描いた画もあり、当時の人々の旅の様子を知ることができます。

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ここが坐摩神社行宮。当時は熊野へ向かう人々でにぎわっていたことでしょう。

森の石松の「鮨食いねえ」と掛け合う場面や、「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんのふたりもこの三十石船を利用する場面がでてくるらしいです。
ちなみに、この「八軒家」という地名は、昔ここに八軒の船宿があった、または川に沿って八軒の民家があったことからきたとの説があるようです。その昆布屋さんを少し西へ行ったところに、なんとなく風情を感じる石段が見えます。これも初めはその程度にしか思っていませんでしたが、どうやら当時はこの石段を使って船着場から通りへ上がっていたようです。ということは、このあたりまでは川岸だったんでしょうか?
実際には、船着場は今の天満橋駅の裏側あたりだったとのことなので、あくまでも想像ですが、水位や地形など、今とはずいぶん違ったのかもしれませんね。

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熊野かいどう碑がある道。この道をずっと南下すると熊野へ辿り着きます。
話は逸れますが、幕末の新撰組が常宿として利用していた「京屋」もこの石段を上ったところにあったそうです。
そしてさらに西に向かい、エルおおさか手前の道を左に入ったところに坐摩神社行宮(窪津王子跡)があります。行宮とはお旅所のことらしく、ここには熊野の神々が祀られた九十九王子の第一、窪津王子で、人々はここを休憩所として利用していたようです。ここから次へ、また次へとおよそ百箇所ある王子を道しるべとして人々は熊野への旅を進めていったのです。
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