各時代の中之島 | 明治の中之島

キタとミナミの台頭

明治の中之島
明治期の大阪と中之島の位置づけ
1.鉄道網の発達
「明治期の淀川では、外輪船の定期航路が大阪-宇治間を結んで客を運んだものの、鉄道網の進展に押され、衰退していった。梅田駅や難波駅が、関西各都市、さらに名古屋、東京と結ばれるに従い、大阪市域におけるキタとミナミのポテンシャルが高まり、大阪に「南北軸」のベクトルが生まれる。2.大阪南部や郊外の開発
第 5 回内国勧業博覧会は、天王寺公園を中心とした第 1 会場と、堺大浜の第 2 会場で開催された。これを機に、ミナミに新世界が登場。最先端のアミューズメント・ゾーンとなり、大阪南部の開発にも拍車がかかる。一方、明治末期からは箕面・豊中など北摂エリアも郊外住宅地として拓かれ、大阪の開発ポテンシャルは南北に向かう。明治の中之島 鉄道

 

中之島に人・金・文化・情報拠点が集中

明治時代の中之島(*1)

 

明治から大正にかけて、中之島はまさに「新たな都市施設の揺籃の場」といった様相を示す。中でも瞠目されるのは「学校」。さまざまな種類の学校が、中之島に設立され、やがて、他の地区に移転していく。
中之島は、大阪における「新時代の人材育成機能」のパイロット・スタディの地であったと言えよう。

府立大阪中学校(北野高校前身):常安町
最先端の近代教育がなされた。地理、物理、数学など、洋学の教科書は全て原書。国学、漢学の程度も高く、「神皇正統記」「孟子」が使われていたと言う。英才学校の名は天下に轟き、195人の在学生中、越境入学者97人、ヨーロッパ人生徒も1人混じっていた。エリートの矜持に裏打ちされた、自由と反骨の大阪的な校風が生まれた。


都市住民のアトラクティブ・ゾーン

1.東の中之島公園
中之島公園は、明治24年、大阪初の公園として開設され、水都大阪の代表的な都市公園となった。公園内には、これも大阪初のビア・ガーデンがオープン。カフェとともに、都市的な憩いを提供する。銀水楼は西洋料理、清華楼は日本料理というように、質の高い料亭も公園内に軒をならべた。
現在の中央公会堂の裏手付近には、翠柳館という能舞台もあり、金剛流の能楽が定期的に上演されている。自由亭ホテルは、大阪で唯一、外国人が宿泊できる設備を持ったホテルである。ホテルの隣には浪花温泉。なんとも贅沢な公園であったと言えよう。

明治時代の中之島
日本初のビアホールがオープン(*3)
明治時代の中之島
自由亭ホテルや浪花温泉が並ぶ難波橋周辺の中之島公園(*2)

2.西のスーパー銭湯・燕亭湯

玉江橋の東から常安橋にかけては商家が並び、対岸の福島・浦江・曾根崎・海老江のあたりは、近郊からの買物客に向けた市場として賑わっていた。
付近一帯は、夜店(柳川の夜店)で殷賑を極め、明治 12 年には、一大歓楽街の建設が始まる。競馬場、見世物小屋、寄席、矢場を始め、休憩所・飲食店が立ち並ぶ不夜城となった。常安橋の西に
は、町芸者検番、待ち合い茶屋もあったと言う。なかでも、講釈師燕亭という人がつくった「燕亭湯」は大人気。今で言う「サウナ&エステティック」的な豪華な浴場。明治維新で廃材になった川崎東照宮の宮材を使い、当時の大阪で最も豪壮な建築であり、浴場内に入ると、頭上からほとばしる湯滝に浴するという新奇な施設を導入して、庶民を驚かせた。しかし、産業化の波に押されて衰退し、西地区から娯楽施設は消えていく。

 


出典

※1 「中之島誌」
※2 「浪花十二景之内中之島公園地上」 神戸市立博物館蔵
※3 「写真集なにわ今昔」 毎日新聞社

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