大阪の古称は「ナニワ」である。その名称の由来は諸説あるが、中之島エリアにも関係していると思われるので紹介したい。「ナニワ」の由来が記されている最も古い書物は『日本書紀』である。神武天皇が橿原宮で即位する前、いわゆる神武東征といわれる大移動の途中に「ナニワ」を通っている。イワレ彦(後の神武天皇)は、大船団を伴って難波の碕(さき)に到着するが、そこは潮の流れが速く、そこから浪速の国、または浪花といい、難波はそれが訛ったものだという。船団は、その後、河内湖を通って生駒山麓の草香邑(くさかむら)の白肩之津(しらかたのつ)に辿り着く。船が生駒山の麓に着いたという記述は古地理図とも一致しておりとても興味深い。
ところで、潮が速かったとされる難波の碕とはどこなのだろうか。碕とは岬のような場所と考えて差し支えないが、古地理図からは2ヵ所が想定される。ひとつは上町台地の北側に伸びた砂州の先端部、もうひとつが難波の堀江が通っていたとされる上町台地の北端部である。潮が速かったという記述は、河内湖と大阪湾の干満差によって発生していたことが古地理図からも想像できるので2ヵ所とも当てはまるだろう。しかし、『日本書紀』が編纂されたのが8世紀であることを考えると、どちらも遙か昔の出来事であり答えは迷宮の中である。
大阪天満宮の境内には「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」がある。これは、神武天皇が即位して2600年にあたる昭和15年に国家事業として設置されたもので、当時は難波碕が近くの天満橋周辺であったと考えられていたのだろう。わが国最古の歴史書を辿っていくと、かつての大阪が「ナニワ」として重要な位置にあったことがわかる。中之島は、速き潮が運んできた土砂がたまって形成された場所なのかもしれない。
大阪天満宮境内にある「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」 碑の裏には、潮が速かったことから浪速の名を得て難波となったのはこの付近であると記されている。
現在の中之島は土佐堀川と堂島川に挟まれているが、両河川は潮の満ち引きによって水位が日々変わっている。たまには、川の水位の変化を眺めてみてはいかがだろうか。心にちょっとした余裕を持つことで、いままで見えてこなかったものが見えてくるかもしれませんよ。
剣先と大川。奥に生駒山が見える。
難波の碕が上町台地の先端部で難波の堀江の付近だと考えると、イワレ彦の船団は潮の流れが速かったこの辺りを通って行ったと想像できる。この付近が「ナニワ」の名の発祥地なのかもしれない。
難波の碕が上町台地の先端部で難波の堀江の付近だと考えると、イワレ彦の船団は潮の流れが速かったこの辺りを通って行ったと想像できる。この付近が「ナニワ」の名の発祥地なのかもしれない。
※古地理図は『大阪平野のおいたち』(梶山彦太郎・市原実著、青木書店、1986)収録の図をもとに作成・着彩している。
(2018年1月/※画像はイメージです)
新之介プロフィール
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- 2017.12.15 第1回『母なる川・淀川の誕生と中之島』
- 2018.1.16 第2回『中之島と「ナニワ」の起源について』(現在のページ)
- 2018.2.16 第3回『東京は「谷の町」、大阪は「州(しま)の町」』
- 2018.3.16 第4回『淀屋常安が中之島を開発する前』