【中之島散策~中之島人を訪ねて】
ガイドツアーで、中之島図書館の魅力を満喫!
大阪府立中之島図書館 曽束 訓子さん

ガイドツアーで、中之島図書館の魅力を満喫!
大阪府立中之島図書館は大阪市中央公会堂と並び、この地域のシンボルともいえる歴史的建造物です。もちろん図書館としても現役で、行かれたことがある方も多いと思います。
その中之島図書館で、毎週土曜、ガイドツアーが行われているのはご存じでしょうか? 今回は中之島図書館ガイドツアーの内容や魅力をご紹介するとともに、ガイドを務められている曽束訓子(そつか のりこ)さんはじめ図書館のスタッフの方々に、普段はお聞きできない興味深いお話を伺ってきました。
(トップの写真および★マークは、ShoPro・長谷工・TRC共同事業体提供)
今回、ガイドしてくださった曽束訓子さん。丁寧で、とても熱意が感じられるガイドで、非常にわかりやすかった。

今回、ガイドしてくださった曽束訓子さん。
丁寧で、とても熱意が感じられるガイドで、非常にわかりやすかった。

■知らなかった図書館の由緒、見どころ、魅力に触れる感動の40分

スタッフの方々にお話を伺う前に、まず「ガイドツアー」とはどのようなものか、実際に参加させていただきました。
まず参加者には一人一台、耳に装着する「ワイヤレスガイドシステム」が手渡されます。これにより、ガイドさんの声が明瞭に聞こえます。

一人一台、貸し出されるワイヤレスガイドシステム。

一人一台、貸し出されるワイヤレスガイドシステム。

ガイドツアーのスタートは、2階中央ホールから。
ここでは、まず中之島図書館設立に尽力した住友家の方々にまつわるエピソードなどの説明があります。設計・建築にあたっては、日本の近代建築の父とも呼ばれる辰野金吾が関与していたことなど、非常に興味深いお話が聞けました。

2階の中央ホールにて。住友家第15代当主、住友吉左衛門友純の寄付によって図書館が建てられたことなど、図書館の由来について説明する曽束さん。

2階の中央ホールにて。
住友家第15代当主、住友吉左衛門友純の寄付によって図書館が建てられたことなど、図書館の由来について説明する曽束さん。

取材当日は横なぐりの豪雨。通常、降雨時は館内のみのガイドツアーとなる場合もありますが、曽束さんが「せっかくの取材ですので、やはりどうしても外観の説明を行いたい」とのことで、傘をさし、急遽向かいの大阪市役所のエントランスにある大きな庇(ひさし)の中でのガイドツアーとなりました。

豪雨の中、玄関の様子が一層、荘厳に見えた。

豪雨の中、玄関の様子が一層、荘厳に見えた。

ギリシア神殿を思わせる荘厳な正面風景、各所にちりばめられた装飾や細工など、説明して頂かなければわからないことがいっぱい。本当に勉強になりました!

館内に戻ると、ガイドツアーは1階の休憩室へ。普段、何気なく使っているスペースにも、さまざまな由緒があることがわかります。

再び開放的なドーム型の天井を持つ中央ホールへ戻り階段を上ります。
そこには菅原道真、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェイクスピア、カント、ゲーテ、ダーウィンの8人の賢人(八哲)の名前が刻まれた銘板が。まさに図書館の「知」の象徴ともいえるでしょう。
あらためてご説明いただくまで、そのような銘板があることさえ気づきませんでした。

中之島図書館を代表する「景観」ともいえる中央ホールと階段、そしてドーム。

中之島図書館を代表する「景観」ともいえる中央ホールと階段、そしてドーム。

少し見えにくいが、壁とドームの中間部に、八哲の名前が刻まれた銘板が設置されている。★

少し見えにくいが、壁とドームの中間部に、八哲の名前が刻まれた銘板が設置されている。★

曽束さんの説明を聞きながらドームを見上げるツアー参加者。

曽束さんの説明を聞きながらドームを見上げるツアー参加者。

最後にツアーは3階の「記念室」へ。ここは明治・大正期の調度品が残っており、図書館設立時の面影が最も色濃く残された場所。どこか船の「舵」を思わせる窓は、商都として世界に羽ばたく大阪の象徴であり、「知」の海に船出するための港としての図書館を表しているようでした。

舵を思わせる意匠を持つ窓が特徴的な「記念室」。テーブルやカーテン、そして一部のガラスは、明治・大正期当時のもの。

舵を思わせる意匠を持つ窓が特徴的な「記念室」。
テーブルやカーテン、そして一部のガラスは、明治・大正期当時のもの。

約40分間にわたり、じっくり説明を聞かせていただきましたが、どの話も興味深いものばかり。あっと言う間に過ぎてしまった感じです。こんな素晴らしいガイドツアーが毎週、開催されているのですから、ぜひ一度、参加されてみてはいかがでしょうか。

それではツアーご紹介に次いで、曽束さんをはじめ図書館スタッフの方々のお話を聞いてみたいと思います。

■全国紙や旅行ガイドでの掲載で、参加者の半数以上が大阪府以外から

取材させていただいた、中之島図書館スタッフのみなさま。左より統括責任者の斉藤尚さん、副統括責任者の片岡なつみさん、広報の岩田りえさん、ガイドの曽束訓子さん※。

取材させていただいた、中之島図書館スタッフのみなさま。
左より統括責任者の斉藤尚さん、副統括責任者の片岡なつみさん、広報の岩田りえさん、ガイドの曽束訓子さん※。

※大阪府立中之島図書館は現在、株式会社小学館集英社プロダクション、株式会社長谷工コミュニティ、株式会社図書館流通センターの共同事業体が指定管理者として運営にあたっています。斉藤尚さんが共同事業体の統括責任者となります(令和6年6月取材時)。

      -ガイドツアー、ありがとうございました。参加させていただいて本当によかったです!

曽束「そういっていただいて、こちらもうれしいです。ただ、中之島図書館にはガイドができる者が3人いるのですが、4年目になったばかりの私が、こうやって話させていただくなんて…という感じなんですが(笑)」

      -いえいえ、お話がすごく面白かったですよ。ところで、ツアーの定員は10名ということですが、いつも何人ぐらいの方が参加されるのでしょうか。

曽束「その時によって違うのですが10人の時もあれば、おひとりの時もあります。これだけは私たちもなかなか読めないですね」

      -おひとりしか居ない時もあるんですか!?

曽束「ありますよ!参加者さまには『マンツーマンで、すみません』といいながら、ご案内させていただいております。先着順ですので開催時間の30分前から受け付けて、10人で締め切るという方式でやっています」

      -10名に達した後、参加希望者が来られた場合、お断りされるのでしょうか。

曽束「用意しているワイヤレスガイドシステムの数にも、限りがありますので、ご了承いただけたらと思います」

      -ガイドさんから見て、特におすすめの場所はありますか?

曽束「全ておすすめですが、やっぱり外観と中央ホールが素敵だと思います。フォトジェニックというか、今風にいえば『映える』という感じでしょうか」

岩田「私は、記念室天井の織物ですね。設立当時の、百年以上前のものを現状復旧したとご説明すると、みなさん『へ~っ!』と感嘆の声をあげてくださいます」

岩田さんおすすめ、記念室天井の織物。記念館が新設された大正11年(1922年)当時の織物に手を加え、復旧したもの。記念室には、当時のものが多く、部屋自体が貴重な歴史的資料となっている。

岩田さんおすすめ、記念室天井の織物。記念館が新設された大正11年(1922年)当時の織物に手を加え、復旧したもの。
記念室には、当時のものが多く、部屋自体が貴重な歴史的資料となっている。

      -本当に、声をあげたくなるようなところばかりでした。参加される方は、どのような方が多いのでしょうか。

曽束「体感的に一番多いと思うのは、40~60代の方でしょうか。ご夫婦の方も結構、多いように思います。
それと大阪に旅行で来られた方など、府外から来られる方が多いですね。関西圏でなく、もっと遠方からです。昨年のアンケート結果では、府外からが半分以上でした」

岩田「最近、旅行ガイドブックや全国紙の広報の方からのお問い合わせも多く、それをご覧になって、関西方面に旅行したついでに・・・という方が増えているのかもしれません」

■自分より建築に詳しい方がいると、申し訳なくなる

      -ガイドをするにあたって、ご苦労されていることはありますか?

曽束「建築や歴史など、私よりも詳しい参加者が来られた時ですね。かなり専門的な質問をされることがありますが、私ではお答えしかねることも多いのです。そんな時は素直に『わかりません』とお伝えしているのですが・・・」

      -なかなか大変ですね・・・

曽束「大変というより、『お答えできず、申し訳ありません』という気持ちでいっぱいです。
もちろん、そんな時はいろいろ調べて勉強するわけですが、120年という歴史があるので、とても調べきれなくて・・・」

参加者からの質問に答えられない時が、一番、申し訳ない気持ちになるという曽束さん。

参加者からの質問に答えられない時が、一番、申し訳ない気持ちになるという曽束さん。

      -反対にガイドをやっていて、「よかったこと」とか「うれしかったこと」は何でしょうか?

曽束「やはり『楽しかった!』といっていただくのが、一番うれしいですね。『勉強になりました』といってくださる方もいらっしゃいますが、シンプルに『楽しかった』と思っていただけるだけで充分ですね。ツアーをきっかけに中之島図書館に興味を持っていただけたら、次は図書館の資料を使って、建物や歴史について調べていただけるとうれしいです」

岩田「スタッフの一人としてガイドツアーに参加してから、この建物を見る目が違ってきました。それ以来、『こんな素敵な体験ができるガイドツアーを、もっと多くの人に知らせたい!』と思い広報活動を行っています。だから今回の取材のように、ガイドツアーのことを知っていただける機会が増えることは、本当にうれしいですね」

      -本当に、私も見る目が変わった感じがします!

岩田「そうですよね!それでもっと話題にしていただきたいと思い、今、館内にある『スモーブローキッチン中之島』という素敵なカフェとタイアップして、そこでモーニングを食べてからツアーに行くといったこともやっています。これが月に1回なんですが、大人気ですぐに予約が埋まるという状況です。予約受付している8月開催分まで、すでに満席となっていて(令和6年6月取材時)、とても予約の取りづらいツアーになっています」
※9月以降の予約については、中之島図書館ホームページの「イベント情報」をご確認ください。
https://www.nakanoshima-library.jp/event/

広報の岩田さん。併設のカフェとタイアップを図るなど、ツアーのアピールに熱心に取り組んでおられる。

広報の岩田さん。併設のカフェとタイアップを図るなど、ツアーのアピールに熱心に取り組んでおられる。

「スモーブローキッチン中之島」でのモーニング付きガイドツアーを告知するフライヤー。中之島図書館に加え、大阪市中央公会堂とのコラボガイドツアーとなる。

「スモーブローキッチン中之島」でのモーニング付きガイドツアーを告知するフライヤー。
中之島図書館に加え、大阪市中央公会堂とのコラボガイドツアーとなる。


■中之島は「大阪の文化ステーション」。その一翼を担うのがツアーガイド

「これからの展開として、どのようなことをお考えでしょうか?」という質問に、中之島図書館の統括責任者である斉藤尚さんが答えてくださいました。

斉藤「中之島の他の施設と横の繋がりを深めようということで、彼女たちガイドツアーが中心になって、さまざまなコラボ企画を行っています。
昨年は、御堂筋を挟んで向かいにある日本銀行大阪支店さん、大阪市中央公会堂さん、そして私たち中之島図書館がコラボして一緒にガイドツアーを行いました。
各館のツアーガイド同士が繋がって、中之島の文化を深める大きな動きとなっています。その一翼を担っているのが、彼女たちガイドなんです。先ほど『ガイドをやっていてうれしかったことは?』というご質問がありましたが、そういうこともガイドの楽しさや、やりがいに繋がっているのではないかと思います」

岩田「先にご紹介したモーニング付きのツアーも、中央公会堂さんとのコラボイベントです。いろんなイベントで、ツアーの魅力を感じていただけたらと思います」

曽束「『こども本の森 中之島』さんと、私たち中之島図書館で子どもたちを対象にしたコラボツアーもやっています。子ども向けなので退屈されないよう、途中、クイズを入れるなどいろいろ試みています」

斉藤「中之島は、『大阪の文化ステーション』なんです。いろんな施設とコラボしたガイドツアーであるとか、あるいは図書館を使ったさまざまな講座や展示会も増えてきました。『大阪の文化ステーション』としての活動が、どんどん活発になっていると思いますね」

「中之島は大阪の文化ステーション」と語られる斉藤統括責任者。

「中之島は大阪の文化ステーション」と語られる斉藤統括責任者。

      -これからますます楽しみが増えていく中之島ですが、地域としてどのような印象をお持ちでしょうか?

曽束「素敵な場所ですよね。その人それぞれ、いろんな思いがあるのではないかと思います」

岩田「誰にとっても、思い出の場所になっているのではないでしょうか。年配の方から若い方やお子さままでが繋がっていて、思い出を作れる場所なんだと思います」

斉藤「『文化ステーション』という言葉が出てきましたが、中之島は図書館に文学、美術館に美術、そしてフェスティバルホールに音楽と、文字通りの『文化』に満ちた地域です。
さらには多くの会社があり『企業文化』にも満ちています。ホテルもたくさんあって、さまざまな文化が集積している場所、それが中之島なんだと思います。
このように幅広い文化が狭い島に集積しているというのは、他にはないでしょう。そんな意味からも『文化ステーション』という位置づけは、非常に重要だと思います」

ガイドツアーを通して、文化ステーションとしての中之島を広めていく・・・そのような気概をスタッフのみなさんからひしひしと感じました。
先にも書きましたが、毎週土曜日に行われているツアーなので、比較的、気軽に参加できるのではないでしょうか。この記事で興味を持たれましたら、ぜひとも、ご参加いただけたらと思います。

●中之島図書館ガイドツアー

開催日時:〈毎週土曜〉 1回目/11:30~、2回目/13:30~、3回目/15:30~
所要時間:40分程度
受付方法:各回30分前より先着順にて受付(事前申込不要)
受付場所:中之島図書館 本館2階 総合案内
定員:各回先着10名さま
参加費:500円〈オリジナルグッズ付〉
注意事項:

  • ・階段の昇り降りがございますのでご注意ください。
  • ・歩きやすいお履物でお越しください。
  • ・受付では荷物のお預かりはできません。館内のコインロッカーをご利用ください。
  • ・閲覧室、書庫のご案内はありません。
  • ・写真撮影が可能です。(一部不可のものもあります。)
  • ・団体(10名以上)の場合は、別途ご相談ください。

※大阪府立中之島図書館ガイドツアーについては、下記サイトをご参照ください。
https://www.nakanoshima-library.jp/guide-tour/

大阪府立中之島図書館
住所 〒530-0005 大阪市北区中之島1-2-10
電話 06-6203-0474(代表)
開館時間 月曜日~金曜日:午前9時~午後8時
土曜日:午前9時~午後5時
休館日 日曜日、国民の祝日・休日、
3月、6月、10月の第2木曜日、年末年始
アクセス 〇地下鉄淀屋橋駅 徒歩5分
〇京阪本線淀屋橋駅 徒歩5分
〇京阪中之島線なにわ橋駅 徒歩3分
ホームページ https://www.nakanoshima-library.jp/
https://www.library.pref.osaka.jp/nakanoshima

【中之島散策~中之島人を訪ねて】
大阪文化の象徴「中之島」を日本のウィーンに!
一般社団法人 日本テレマン協会 音楽監督 延原 武春さん

大阪文化の象徴「中之島」を日本のウィーンに!
ゲオルク・フィリップ・テレマンという名前をご存じでしょうか。バロック期に活躍した音楽家で膨大な作品を残した名匠です。
そのテレマンの名を冠し60年にわたり大阪を本拠地に活躍している楽団が「日本テレマン協会」。室内オーケストラと合唱団を備え、その名はヨーロッパにも鳴り渡るほど。
楽団の創立者であり総帥でもある延原武春さんは、かねてから「中之島をウィーンに!」と提唱されています。延原さんに、楽団と音楽にまつわる興味深いお話を伺ってきました。
(トップの写真および★マークは、日本テレマン協会提供)
日本におけるバロック音楽の第一人者、延原武春さん。日本テレマン協会創立以来、60年にわたり第一線で活躍されている。

日本におけるバロック音楽の第一人者、延原武春さん。
日本テレマン協会創立以来、60年にわたり第一線で活躍されている。

■1963年3月、大学に見つからないように名古屋で初演

      -延原さんが、日本テレマン協会を設立された経緯について、お教えください。

「私は大阪音楽大学の付属高校に通っていました。3年生の時に耳にしたテレマンという作曲家、さらにはバロック期の音楽についてとても興味を惹かれました。当時、私以外に3人ほど同好の士がいて、彼らと研究会を行うなどしていました。それが最初ですね」

      -その頃、日本では作曲家テレマンについて、どれほどの知名度があったのでしょうか。

「テレマンなんて誰も知りませんよ。バロックといえばバッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ。だから当然、日本語の文献などもありません。洋書と格闘しながら何とか研究していったのです。それからしばらくして、その仲間とぼちぼち演奏に取り組んでいったという次第です」

      -バロックの音楽家といえば、やはりバッハが思い浮かびます。

「1960年代以前から、なぜか『バッハは偉い!』という感じになっていましたね。しかしテレマンはいわばバッハのお兄さん的な存在。いろいろ文献を読むと、バッハのお子さんの名付け親になったりしています。テレマンは生涯に多くの曲を作った大作曲家で、バッハやヘンデルとも密接な人間関係を築いています」

      -お仲間と楽団を結成し演奏活動を行ったのが、現在の日本テレマン協会の第一歩ということでしょうか。

「当時、大阪音楽大学は学生が学外で演奏するのを禁じていました。ポピュラーバンドで演奏しているのが見つかって、退学になった者もいます。それで『大学の目も届きにくいだろう』ということで、1963年3月に名古屋で行ったのが最初です。
日本テレマン協会の創立記念日は、その日にしています。2023年で、ちょうど60年です」

定例演奏会で指揮を執る延原さん。★

定例演奏会で指揮を執る延原さん。★

■テレマンが目指した「人を喜ばせる音楽」を、自分たちも。

      -延原さんが、ご自身の楽団に「テレマン」という名を冠しているということは、テレマンをかなり尊敬されているということでしょうか。

「尊敬というより私自身、テレマンが一番好きでしたから。バッハをやるにしても、ヴィヴァルディをやるにしても、ちょっと窮屈な感じがしてね(笑)。
私はオーボエを演奏していて、テレマンの曲が一番ステキやなぁと思ったんです。それに『日本でテレマンの名前を広めてやろう』という気持ちもありました」

ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann)。1681年~1767年。クラシック史上、最も多くの曲を作った作曲家とされる。ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人。バッハが死去した時には、彼の業績を称える追悼の言葉を贈っている。

ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann)
1681年~1767年。
クラシック史上、最も多くの曲を作った作曲家とされる。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人。バッハが死去した時には、彼の業績を称える追悼の言葉を贈っている。

      -バッハやヴィヴァルディが窮屈というのは?

「テレマンは生涯で5000曲ほど作っており、世間に受け入れられやすい曲や演奏しやすい曲がたくさんありました。バッハは演奏しにくい曲が多くて(笑)。
それにテレマンには3名とか4名とか、小さな場所で演奏できるような曲も多かった」

      -テレマンの方がわかりやすく、より大衆的だったということでしょうか。

「ある人に『テレマンって、どんな人ですか?』と聞いたら、『日本でいえば、古賀政男のような人』だと・・・今やご存じない方も多いでしょうけれど(笑)。
テレマンの自叙伝には、『外へ出てごらん。すると大道芸人がいろんな面白い音楽をやっているよ』といったことが書いてあります。その時代のポピュラーなリズムなどをどんどん取り入れて、先取の気性を持っていた人だったと思います」

      -あまり知られていませんが、偉大な音楽家だったのですね。

「『人が喜ぶから、作曲をするんだ』というのがテレマンの信条で、長寿だったこともあり本当に多くの曲を作曲しています。『人を喜ばせる』という考え方については、私も大いに影響を受けていますし、我々日本テレマン協会の中にも息づいています」

■東ドイツをはじめ国内外での活動で、サントリー音楽賞を受賞

      -大学に見つからないように始めた演奏活動ですが、それが今や60年です!

「最初は3人ぐらいでささやかにやっていたものが、バロック好きな音楽家が集まってきてメンバーも増え、室内オーケストラ(テレマン室内オーケストラ)や合唱団(テレマン合唱団)も作ろうという話になったのが前の大阪万博の頃、1970年前後です。
創立60周年といっても、1970年頃までは準備期間のようなもの。だから本格的な活動は50年ほどだと思っています。
ともあれ楽団としてなんとかしなければと、マンスリーコンサートや定期演奏会を始めたりして、それが今やマンスリーコンサートは538回、定期演奏会は301回を数えるようになりました」(回数はいずれも2023年12月14日時点)

      -マンスリーコンサートが538回、定期演奏会301回というのは、本当にすごいことです。定例のイベントとして定着できた理由は何でしょうか。

「ちょうど時代もよかったと思います。
それまでクラシックといえば大編成のオーケストラやオペラが中心でした。それが1960年代後半にイタリアの『イ・ムジチ合奏団』がヴィヴァルディの『四季』を室内オーケストラで演奏し、フランスやドイツで人気に火が付いたんです。我々も影響されましたし、国内でも室内楽が注目されはじめました。
それに当時は、私より少し若い『団塊の世代』が新しい価値観を持ち込んだ時代でもあり、その世代が私たちのやろうとしている音楽に賛同してくれたのも大きかった。
1970年代以降は百貨店などの企業が、文化事業の一環として演奏会を開催したりホールを作ったりするなど、クラシックがぐっと身近な存在になっていったように思います」

      -とはいえ室内オーケストラや合唱団など多くのメンバーを抱える上で、ご苦労もあったのではないでしょうか。

「苦労ということは、あまり感じなかったですね。だいたい1980年代は、ほとんど外国で演奏していました。特に東ドイツ(当時)には、ほぼ毎年行っていました。私一人で行って地元の楽団を指揮することもあったし、楽団と行って現地で演奏会もやりました。
そうした活動を続けるうちに、東ドイツで開催された『J.S.バッハ生誕300年記念国際音楽祭』に日本の楽団としては唯一招かれ、室内オーケストラと合唱団を率いて演奏しました。それが日本でも認められて、1985年にサントリー音楽賞を受賞しました」

2003年、ドイツでの演奏風景。オーボエを演奏する延原さん。日本テレマン協会は、ヨーロッパでの公演活動も活発。★

2003年、ドイツでの演奏風景。オーボエを演奏する延原さん。
日本テレマン協会は、ヨーロッパでの公演活動も活発。★

      -現在、マンスリーコンサートや定期演奏会以外に、どのような活動を行っておられますか。

「いろんなアイデアを出し合って、楽しいイベントを企画しています。
たとえばテレマンは『食卓の音楽』というものも作曲しています。要するに食事の際のBGMですね。そこであるホテルと協力して、18世紀の貴族の晩餐会を再現するコンサートを行いました。バロックの演奏を聴きながら、バロック時代のレシピによる料理を楽しんでいただくというイベントです。これ以外にも、いろいろありますよ」

      -当時を感じることができるステキなイベントですね。ぜひ行ってみたいです。

「我々から見たら『聴く人』、お客さまから見たら『演奏者』の、お互いの顔が見える音楽をやりたい。ステージからではなく、お客さまと同じ目線でという思いからです。
18世紀は貴族たちが食事してお酒を飲んで、いい気分になっている目の前で演奏していました。格式張る必要はなく、お客さまに喜んでいただければいいのです」

■ローカルだからこそ、育める文化がある。それを大事にしたい。

      -延原さんと日本テレマン協会は、これまで60年間、ずっと大阪を拠点にされています。東京へ移る予定はなかったのでしょうか?

「思ったことはなかったですね。でも正直にいうと『東京に来ませんか?』というお誘いはありました。
東京は世界的な大都市です。パリ、ベルリン、ロンドンなどの大都市と同じです。我々がヨーロッパの都市に行って演奏するように、東京も同じように演奏に行く場所であればいいんです。住んでしまうと、面白くない(笑)。
ドイツには『Aオケ』『Bオケ』というのがあります。『Bオケ』は簡単にいえば、お昼休みにご飯を自宅に食べに帰れるような、ごく近くに住んでいる楽団員で構成されているオーケストラのこと。要するにローカル・オーケストラなんですが、そういう楽団の方が演奏技術は別にして面白い。それぞれのローカルにカラーがあって、それが文化というものを形作っていることがわかるんです」

      -大阪ならではの文化、カラーを大切にするということですね。

「日本テレマン協会は関西、特に大阪の楽団として大阪の人に育ててもらったと思っています。
それに元々、関西には華やかなクラシック文化がありました。演奏できるホールが、東京よりたくさんあったのです。むしろ1960年代までは関西の方が盛んだったように思います。その当時のクラシック専門雑誌には、東京の記事と関西の記事が半々ぐらい載っていましたからね。それが今は・・・」

      -最近は東京一極集中のようになってしまっています。

「バッハの『マタイ受難曲』は、18世紀の初演以来、長らく忘れられていました。それを19世紀になってメンデルスゾーンが復活上演し、バッハが再評価されました。その後『マタイ受難曲』はいろんな音楽家によって演奏されています。
我々はそれを日本で初めて、メンデルスゾーンが上演した時そのままの形で上演したんです。その時、東京のジャーナリストが『大阪でも日本初演ができるというのは、ステキなことですね』といいました。それは『初演は東京でするのが当たり前』という認識の裏返しからの発言ですよね。そういうところを変えていかねば」

F.メンデルスゾーンが1829年、ベルリンで蘇らせたスコアそのままで再現したJ.S.バッハ「マタイ受難曲」のフライヤー。★

F.メンデルスゾーンが1829年、ベルリンで蘇らせたスコアそのままで再現したJ.S.バッハ「マタイ受難曲」のフライヤー。★

■中之島に来て欲しい。そして音楽を演奏していたら、聴いて欲しい。

      -延原さんはかねがね「中之島をウィーンに」と提唱されていますが、そのお気持ちをお聞かせください。

「大阪の音楽文化は、常に中之島から始まっていました。まさに文化の中心です。その周囲には新聞社の社屋があり、どこにもホールが備えられていました。そんな中之島を、音楽の都であるウィーンのようなところにしたいと思っています」

      -そうなるためには、中之島には何が必要だとお考えですか?

「音楽を奏でる場所として考えると、我々日本テレマン協会は古い建物などバロックの時代、18世紀や19世紀を感じさせる雰囲気のある場所で演奏したいと考えています。
ただ音楽界全体のことを考えると、中之島にはもうひとつかふたつ、音楽ホールがあればいいのになぁと思います。大阪城ホールのようなものから小ホールまで、いろんなホールがあれば、若手にも活躍の場が広がるでしょう」

      -最近、美術館は増えてきていますが、確かに音楽用ホールはもう少し欲しいですね。

「前のフェスティバルホールには小さいホール(リサイタルホール)もありましたが、新築されて無くなりました。それが残念ですね。
美術の方は、今すごく頑張っていますよね。だから我々としては美術館に来た人に音楽を聴いてもらう機会を作るなど、美術館と楽団がお互いに手を取り合って進んでいかねばならないと考えています」

      -延原さんご自身にとって、中之島には何か「思い入れ」のようなものはありますか?

「すごくありますよ!昔々、私が小学生の頃、親戚が北新地でお茶屋をやっていて、お茶屋から中之島が見えました。天神祭など、よく見ていました。
それからモーターボートに乗せてもらって遊んだことなど、思い出がいっぱいあります。当時は裁判所も古くて立派な建物で、ちょっとロンドンやパリを思わせる街でしたね」

      -「日本テレマン協会」が率先して、中之島を本当にウィーンにしていただけたら。

「日本テレマン協会は創立60周年で、一番いい時代を迎えていると思います。演奏者の平均年齢は40代半ばで、やっと自分が思い描くような演奏ができるようになってきました。それに2024年には、新しい事務所も完成します。
『もうこれ以上、いうことはない』という演奏ができるのではないか、そう自負しています」

楽団員とリハーサル中の延原さん。創立60年を経て、今やもっとも充実した時代を迎えているという。★

楽団員とリハーサル中の延原さん。創立60年を経て、今やもっとも充実した時代を迎えているという。★

      -最後になりますが、「中之島スタイル」をご覧の方に、何かメッセージをお願いします。

「おそらく読者の方は、中之島を愛している人が多いのではないかと思います。その理由は、景色がキレイだとか美術館がいっぱいあるからとか、いろいろあると思います。どんな理由であれ、中之島に来て欲しい。その時、演奏会などをやっていたら、ちょっと聴いて欲しい。
中之島は大阪文化の象徴です。みんなで大切にしていきましょう」

今回の取材場所である中央電気倶楽部ロビーにて。「昔から派手なものが好きで、学生時代から赤いクルマに乗っていた」という延原さん。とてもオシャレでダンディー。まさに「粋な大阪文化」を象徴する方でもある。

今回の取材場所である中央電気倶楽部ロビーにて。「昔から派手なものが好きで、学生時代から赤いクルマに乗っていた」という延原さん。とてもオシャレでダンディー。まさに「粋な大阪文化」を象徴する方でもある。

一般社団法人 日本テレマン協会
住所 〒530-0002 大阪市北区曽根崎新地2-1-17
TEL 06-6345-1046
アクセス 〇地下鉄西梅田駅 徒歩3分
〇地下鉄肥後橋駅 徒歩5分
〇京阪渡辺橋駅 徒歩8分
ホームページ http://www.cafe-telemann.com/index.html
https://www.facebook.com/telemann.institute.japan/(Facebook)

【中之島散策~中之島人を訪ねて】
自分のやりたいことができる、自分たちの祭りを中之島で!
第50回中之島まつり実行委員長 竹村 徹さん

第50回中之島まつりの様子
毎年5月ゴールデンウィーク(5月3日、4日、5日)に、中之島公会堂前のスペースをメイン会場に開催されている『中之島まつり』。2023年の今年、なんと50回目を迎えました。
1970年代から続く、この市民手づくりの祭りに30年以上にわたって関わり、第50回中之島まつりの実行委員長を務めた竹村 徹さんに『中之島まつり』が生まれた経緯や開催におけるエピソードを語っていただきました。
(トップの写真および★マークは、中之島まつり実行委員会提供)
第50回中之島まつり実行委員長の竹村さん。35年にわたり、実行委員を務められた、中之島まつりのキーパーソン。

第50回中之島まつり実行委員長の竹村さん。
35年にわたり、実行委員を務められた、中之島まつりのキーパーソン。

■この美しい建物と景観を残したい-そんな想いから生まれた『中之島まつり』

今年(2023年)のチラシ。楽しそうな雰囲気がここからも伺える。裏面には興味深いイベントが並んでいる。

今年(2023年)のチラシ。楽しそうな雰囲気がここからも伺える。
裏面には興味深いイベントが並んでいる。

      -すでに50年も続いている『中之島まつり』ですが、そもそもはどのような経緯で始まったのでしょうか?

「私も最初から参加していたわけではないので、聞いた話ですが・・・。当初は、中之島の景観を守ろうというところから始まったそうです。当時『中之島東部地区再開発構想』というものがあり、旧市役所と図書館と公会堂の3つの建物を高層ビルに建て替えると、大阪市より発表されました。
その当時の昭和40年代はスクラップ&ビルドの考え方が強く、古いものは壊して建て直そうという風潮がありました。しかし若手の建築家を中心に『明治、大正の名建築を一度つぶしてしまうと二度と建てられない。絶対に残すべき』という意見が出て、反対運動が起こったのです」

      -リノベーションが流行っている現在では、あまり考えられないような話ですね。

「そうなんです。でもその頃の公会堂は見捨てられたような状態でした。設備はボロボロでエアコンもない。音響も悪いし、使いづらい施設で、建て替えるしかないと思われていました。しかし、この場所の歴史的価値をもっとたくさんの人に知ってもらうことが必要ではないか、ということから『祭りをして、人を集めよう』という話になったそうです」

      -市民に中之島を再発見してもらうために、祭りを始められたのですね。

「『川と緑と赤レンガ』をキャッチフレーズにしたそうです。大阪市内のど真ん中に川に挟まれた公園があって、そこに赤レンガのとてもきれいな建物が建っている、こんな素晴らしい場所が大阪市内に残されているということを、ご存じない方も多い時代でした。
『とにかく難しいことは抜きにして人に集まってもらい、大阪のど真ん中にこんな素晴らしい場所があるということを知ってもらえたら、それでいいやないか』というのが、そもそもの第1回の祭りの開催動機ですね」

      -ということは、自治体などの主導ではなく、市民の中から生まれてきた祭りということでしょうか。

「そうです。みんなで集まって大騒ぎするのが楽しい、お祭りが大好きという市民が、手弁当でやっています。だから常に大変(笑)!
中之島公園というのは大阪市のものですから、そこで何かをするというのはとっても大変なことで、許可をいただくのはもちろん、資金集めから当日の設営、後片付けから苦情の対応と、一切合切を自分たちでしなければならなかったわけです」

■祭りをすることが、世の中や人のためになる。それが35年、続けられた理由

      -竹村さんが祭りに関わるようになったきっかけは何だったのか、お教えくださいますか?

「最初は友達に誘われて入りました。
世の中にいっぱい『市民まつり』はありますが、たいがい観光協会や青年会議所といったバックボーンになる支援団体があるんです。でも『中之島まつり』は市民が始めた完全ボランティアの祭りなので、自分たちだけでやらねばならないことが多い。常に人手不足だから、参加している人は友達を誘うわけです。こんなことしたいけど一緒にやってくれないか、と。親兄弟を誘ってくる人もいました」

      -当時は別にお仕事をされていたのですよね?

「はい、サラリーマンでした。今でもサラリーマンですが(笑)。当時は製薬会社の研究所に居ました。現在は戎橋筋商店街の振興組合で働いています」

      -竹村さんが『参加してみよう』と思った理由は?

「みんな最初は彼女や彼氏、友達を作りたいからといった理由ではないでしょうか。祭りの世話人代表で、昔、大学の先生をやっていた人が居て、学生をいっぱい動員していたのです。当時は若い人が多かったし、私も25歳ぐらいでしたから、そういうのも目当てというか(笑)。
それに幅広い年代の人が居て、色々な人と話ができるというのも魅力でした。地域も仕事も関係なく利害関係のない、普段なら全く接点のない人たちが集まって、様々な人と知り合えるのがよかったですね」

      -学園祭のノリですね!

「そうです。たとえばバンドを演っている人から『ステージでライブ演奏したい』という声も上がります。でも最初は白紙からのスタートなので『ステージに出たかったら自分でステージを作れ』と。
要するに『出たい者が、自分で作って出る』という祭りなんです。自分のやりたいことが100%ではないかもしれないけれど、実現する。それが『中之島まつり』のいいところだと思います」

メインステージの風景。自分のやりたいことがやれるのが、この祭りの魅力。

メインステージの風景。
自分のやりたいことがやれるのが、この祭りの魅力。★

      -第15回の祭りに20代半ばで参加され、それから約35年経ちましたが、なぜ竹村さんはずっと実行委員会に参加されているのでしょうか?

「私は学生時代から『段取り屋』でした。いろんなことを段取りしていくのが好きだったのです。そんな私にとって、祭りの事務局の仕事は、すごく魅力的に思えたわけです。
それと祭りでの人との出会いや『全ての責任を持ってやりたいことを、やる』という経験が、世のため、人のためになっているのではないかと思いました。社会をよくするための一助になっているかもしれないなら、これは続けていく必要があると考えるようになり、そして今に至るわけです」

市役所南側のプロムナードでは、リバーサイドフリーマーケットが。掘り出し物を見つけようと、多くの人が詰めかける。

市役所南側のプロムナードでは、リバーサイドフリーマーケットが。
掘り出し物を見つけようと、多くの人が詰めかける。★

■コロナ禍を乗り越え、ようやく開催。今年のテーマは「まつりはつづくよ、どこまでも」

      -今年の祭り(2023年5月)のテーマですが、このテーマは実行委員長である竹村さんがお決めになったものですか?

「みんなで話し合って決めます。だいたい前年の9月ぐらいになると『来年は、テーマどうしよう?』ってなるのです。みんなが取り組みやすく、なおかつ時代性があってフックになるような言葉がないかと、ああでもないこうでもないと決めていきます。
第50回のテーマである『まつりはつづくよ、どこまでも』は、50回目という節目を迎え『100回目も目指したいよね』という意味を込めたものです」

      -コロナ禍で2020年、2021年に開催できなかったということも、影響しているのでしょうか?

「それはありますね。祭りができなければ、売り上げが入らず必要経費も賄えなくなります。それが去年(2022年)からできるようになって、何とか続けられることができて、本当に良かったと思っています。開催のためにクラウドファンディングもしてきました。台所事情は、依然厳しいですが、何とかこれからも続けていくぞという覚悟も表しています」

      -今(取材時2023年9月)は、そろそろ次回に向かって進めようとしているところだと思いますが、竹村さんは実行委員長としてどのように進めていかれる予定ですか?

「いや、私が実行委員長だとは決まっていません。たぶん、私がやるとは思うのですが・・・。第50回の実行委員長ではありましたから『前実行委員長』という肩書になるかと思います。実行委員長は、毎年、祭りのたびに決めています」

      -えっ、委員長ではないのですか!? ずっと実行委員長を続けられると思っていました。

「そもそも、1年を通じて実行委員会という決まった組織があるわけではないのです。祭りのたびに結成して解散しています。実行委員って誰なのかといえば『中之島まつり』に出店、出演する人、参加する人全員が実行委員なんです。だからみんなで『ああしたい、こうしたい』と、どんどん主張して欲しいんです。
できることは実現しますし、できないことは知恵を絞ってできるようにするか我慢する。そんなふうに、みんなで一緒に考えていきましょうというのが『中之島まつり』の在り方なんです」

事務所の壁に貼られた歴代委員長の写真。たいていの方が、複数回、委員長を務めている。よく見れば、若かりし頃の竹村さんの写真も

事務所の壁に貼られた歴代委員長の写真。たいていの方が、複数回、委員長を務めている。
よく見れば、若かりし頃の竹村さんの写真も。

      -みなさんが一同に集まっての、打ち合わせの機会などがあるのでしょうか?

「いろんな出展団体さんが50ほどあり、それらの方々との集まりが月に1回程度あります。11月ぐらいから『全体会議』と銘打って、大阪市中央公会堂で会議をやっています。ここでいろんなことを決めて行きます。
それ以外では、ここの事務所(北区天満)で毎週水曜日に10人か15人ほど集まって話し合いを行っています。それが『執行部』といえるかもしれません。執行部でアウトラインを協議して、月1回の全体会議にかけ、進めていくというステップです」

      このように『中之島まつり』は毎年、非常にオープンな姿勢で運営されており、まさに『草の根のまつり』ともいえるでしょう。

事務所の倉庫に積まれた、祭りに使用する備品。左手の怪獣のモニュメントなどは、すべて実行委員会の手づくり。竹村さん曰く「これがウチの財産ですワ」。

事務所の倉庫に積まれた祭りに使用する備品。左手の怪獣のモニュメントなどは、すべて実行委員会の手づくり。
竹村さん曰く「これがウチの財産ですワ」。

■21回目を迎える映画祭、フリマや手作り遊園地など盛りだくさんのイベント

      -例年、5月のゴールデンウィークに3日間開催されていますが、何人ぐらいのお客様が来られますか?

「最近ではマスコミで取り上げられることも少なくなり、資金の関係から大きな宣伝もできないので、お客さまが来てくださるのか、とても心配していました。コロナで2回の中止を挟んだ2022年は、確かに以前に比べれば少なかったですが、それでも我々の予想より、はるかにたくさんの方に来ていただけました。
来場者数は、入場料をいただいているわけではないので正確には把握できませんが、だいたい1日に最低で1万人。多い時で3万人ぐらいではないかと思います」

会場入り口の看板では、記念写真を撮る家族連れも。

会場入り口の看板では、記念写真を撮る家族連れも。★

      -お客さまの世代としては、どれぐらいの方が多いですか?それと、やはりご近所の方が多いのでしょうか?

「世代としては、50代、60代の方が多いように思いますね。2019年の第49回の時に250名ほどの来場者にアンケートを取ったのですが、大阪市以外の場所から来られている方が約半数おられました。特徴的なのは、リピーターが約7割と多いことです。学生の頃、実行委員だったとか、ステージに立ったという人が約3割です。今でも毎年、来てくれているようです。
あとは、意外とお子さまも多いですね。お子さま向けの手づくりゲームを1回100円でやっているのですが、その売り上げが3日間で100万円を超えます。家族4人でやって来て、1日中、フリマでお買い物してゲームで遊んで映画を観て露店で食べたり飲んだりしても1万円でお釣りがきます!」

      -『中之島まつり』の関連イベントとして、映画祭も開催されていますね。

「『中之島映画祭』の方は、今年で21回目になります。観客自身が審査員になってグランプリを決定するという、これも市民のための映画祭です。無料でご覧いただけます。
今年は全国から258の自主映画の応募があり、その中から3次までの審査を通過した9作品を公会堂で上映しました」

公会堂の大集会室で行われている『中之島映画祭』。今年で21回目を迎えた。3日間の会期中に9作品を2回ずつ上映し、観客の投票でグランプリを決めている。

公会堂の大集会室で行われている『中之島映画祭』。
今年で21回目を迎えた。
3日間の会期中に9作品を2回ずつ上映し、観客の投票でグランプリを決めている。★

      -9作品が無料で観られるというのが、いいですね。映画好きには、たまらない楽しみではないですか?

「そうだと思います。結構な力作ぞろいですので、ずっとご覧いただいても退屈しないと思います。そういえば、話題作で賞を貰った監督さんや、朝ドラなどにも出ている有名な俳優さんが自作を応募して、グランプリを獲得されているんです。
『中之島まつり』にお越しになったら、ぜひ、映画祭もご覧になってほしいですね」

      -映画祭以外の催し物も、多彩で興味を惹かれます。

「メインステージでは、音楽やダンス、パフォーマンスの他、トークショーなども行っています。その他、フリーマーケット、スタンプラリー、それと先ほどもお話ししました、お子さま対象の『手づくり遊園地』もあります。飲食関係ではいろんな露店も出ています。家族そろって楽しんでいただけます」

オリジナルで手づくりのゲーム、遊具がいっぱい並ぶ「手づくり遊園地」。木材をメインに、手づくりならではの温かさを感じさせ、子ども達に大人気だ。
オリジナルで手づくりのゲーム、遊具がいっぱい並ぶ「手づくり遊園地」。木材をメインに、手づくりならではの温かさを感じさせ、子ども達に大人気だ。

オリジナルで手づくりのゲーム、遊具がいっぱい並ぶ「手づくり遊園地」。木材をメインに、手づくりならではの温かさを感じさせる遊具は、子ども達に大人気だ。★

■変化する中之島を舞台に、新陳代謝を図りながら継続していきたい

      -すっかり中之島の風物詩として定着した『中之島まつり』ですが、竹村さんはこれから、どう運営していきたいとお考えでしょうか。

「手伝ってくださる方を増やしたいですね。私も20代の頃から35年、関わっていますが、やはりスタッフの高齢化が進んでいます。
今は40代以上が多くて、みんな20年近くやっています。中心メンバーとなる私たちが、50代後半から60代ですので、それを10年は若返らせたい。いや、若返らせないといけないと思っています。でも、なかなか・・・」

      -スタッフの若年化以外に『まつり』として変えていきたいことはありますか?

「お客さまに楽しんでいただく祭りとしては、おおよそのことはできていると思います。先ほどのスタッフの若年化にもつながりますが、祭りに参加することを、もっと高度化する必要があるのではないかと考えています。
たとえば、祭りで手づくりのアクセサリーを販売することがきっかけになって、自分の新しいキャリア育成に寄与し、その方面に進めるといったこと。そういったことが明確にならないと、今の若い人には参加して貰えないと感じています」

      -人の考え方や生き方も時代時代で変わっていきますから、難しいですね。そういえば、この35年で中之島の様子も変わったのではないでしょうか?

「変わりましたね!昔は街灯も少なく、夜になると真っ暗な公園でした。今はすっかりきれいになり、気持ちがいいですね。公会堂などボロボロだった建物も永久保存が決まり補修され、最新の施設のように生まれ変わりました。
大阪市のど真ん中で、自然と建築物が一体化されていて、なおかつ憩いの場になっている、それはとても貴重なことだと思います。そんな場所で自由にお祭りをさせてもらえるのは、我々にとって、とてもありがたいことだと思っています」

      -最後になりますが、この『中之島スタイル』をご覧になっている方に、メッセージをお願いします。

「みなさんと、ぜひ一緒に『中之島まつり』をやりたい。興味を持っていただけたら、どんな形でもいいので関わっていただきたい。祭りの当日、来ていただくこともひとつの関わり方なので、来ていただくだけでも大歓迎です。
今回の話を読んでいただき『中之島まつりって、なんだろう』『自分でも、何かやってみたいな』と思ったら、ぜひ一緒にやりましょう。
待っています!」

中央公会堂をバックに、実行委員会のみなさんで記念撮影。祭りを未来につなげるために、みんなで力をあわせて頑張っておられる。

中央公会堂をバックに、実行委員会のみなさんで記念撮影。
祭りを未来につなげるために、みんなで力をあわせて頑張っておられる。★

中之島まつり実行委員会
住所 〒530-0043 大阪市北区天満4-5-13 栗原商事ビル1F
TEL 06-6353-3506
※常駐の者がいませんので、留守番電話での対応となります。
アクセス 〇京阪本線・地下鉄天満橋駅 徒歩下車10分
〇地下鉄南森町駅・JR大阪天満宮駅 徒歩10分
ホームページ http://www.nakanoshima.net/
https://twitter.com/nakanoshima5345(X:旧ツイッター)
https://www.instagram.com/nakanoshima_fes/(インスタグラム)
http://www.nakanoshima.net/eigasai/(中之島映画祭)

【中之島散策~中之島人を訪ねて】
アウトドアでのヨガで叶える、「働く力を応援したい」の想い
生活ヨガ研究所 所長 珠数 孝さん

土曜日の早朝、中之島公園の芝生広場でヨガを楽しむ人たちを、ご覧になったことはありませんか?  
あの方々は、『生活ヨガ研究所』所長である珠数 孝(じゅず たかし)さんが毎週開催している「リバーサイドヨガ」を楽しむみなさん。聞くところによると「リバーサイドヨガ」は、雨でも雪でも開催されているそうです。
「中之島をヨガの聖地にする!」、そう意気込む珠数さんに、中之島でヨガを始めた理由やヨガに対する想い、そして中之島の素晴らしさを熱く語っていただきました。

(トップの写真および★マークは、生活ヨガ研究所提供)

「リバーサイドヨガ」を楽しむみなさん。

      

中之島を舞台に、リバーサイドヨガを開催されている珠数 孝さん。

中之島を舞台に、リバーサイドヨガを開催されている珠数 孝さん。

■仕事に疲れ切った仲間。自分に何かできることは?  ・・・ヨガがある!

      -珠数さんのプロフィールを拝見しますと、ご両親がヨガ道場をされていたとか…。

「そうです。私が生まれた当時、日本にはヨガの道場はまだ2つか3つほどしかなかったと思います。そういうところに、生まれてしまったんですね(笑)」

      -それでは小さなころから、ヨガの英才教育を・・・。

「実は小さい頃はヨガは好きではありませんでした。小学校の頃は、習い事も生活もヨガ一辺倒。大人との合宿も絶対参加でしたし、食事は玄米だったし。白米へのあこがれは今でも根深いです。
家族旅行に行けば、旅先でヨガのポーズを取らされて、恥ずかしかった!(笑)
でも中学になると、『好きにしていいよ』といわれサッカーに夢中になり、大学ではウィンドサーフィンをやっていました。就職も建築関係で、ごく普通の会社員。ヨガとは縁のない生活でした」

      -ごく普通の会社員が、再びヨガに戻ってきたのには、何か理由が?

「勤めていた会社はすごく業績が伸び、売り上げも右肩上がりだったのですが、その分猛烈に忙しくて疲れきってしまう人が増え、メンタルを病む人も出てきました。みんな疲れを誤魔化そうと、お酒などに走って…悪循環ですよね。
それで、何とかしてみんなを救えないものかと考えていた時に、『あぁ、ヨガがいいのではないか。身体と心に何かしらアプローチできる技術こそ、ヨガじゃないか』と思ったわけです。それで会社を辞めヨガを勉強し直し、インドに修行にも行きました」

      -「心の健康」のためのヨガということでしょうか?

「私のやりたいヨガは、『働くという意欲が出てくるヨガ』ですね。ヨガを体験することで、もっと働きたいと思える、要するに活動的になれるようにしたいのです。
健康って、『病気の有る、なし』ではないと思うんです。『働きたい』という気持ちを持っている人にとっては、多少、腰が痛くても膝が痛くても、働けることが一番の幸せなんです。そういう前向きに働けるように気持ちを持っていける、後押しするヨガを目指しています」

      -その考え方は、他のヨガスタジオとは異なるところといえますね。

「その人がその人なりに生きる、それが大事だと思っています。リラックスが必要な人は、リラックスを求めていいですが、リラックスしながらでは生きていけないこともある。
だから生徒のみなさんには、『与えられている力や自分の身体を、しっかりと活かせる状態を作ってほしい』と伝えています。」

天神橋の南詰にあるビルの一室が『生活ヨガ研究所』のスタジオ。

天神橋の南詰にあるビルの一室が『生活ヨガ研究所』のスタジオ。中之島公園の芝生広場でのアウトドアヨガ以外にも、このスタジオでもレッスンを行っている。

■アウトドアに身を置くことで、自然を感じ前向きな気持ちになれる。

      -『生活ヨガ研究所』のスタジオは、土佐堀川に面した天神橋の南詰にありますが、ここを選ばれた理由は?

「中之島に近いからです。もともと私は、アウトドアでヨガをしたいと思っていました。そして場所としては、中之島以外考えられません。梅田と難波の真ん中に、自然がいっぱいあって、こんなに心が揺さぶられて安らげる空間があるのですから、ここでヨガをしない手はないと思っていました。他の場所は、まったく考えていませんでしたね」

      -最初から、アウトドアでのヨガを想定されていたのですね!

「アウトドアでヨガをしたいと思う理由は、2つありました。
まず、ヨガの普及。もっと男性に参加してもらいたかったのです。ヨガというと美容や痩身目的で、やはり女性の参加者が多い。男性に来てもらうには、ビルの奥のスタジオでは敷居が高いので、誰もが目にする場所でやる必要性を感じていました」

      -研究所のマークとなっているイラストも、男性をモチーフにしていますね。

「男性にもヨガを届けたいという想いからですね。太っているからできない、運動が苦手だからできないという方がいますが、運動能力とか体形なんて、ヨガには関係ないんです。なぜならヨガは心ですから」

ヨガスタジオとしてはちょっと珍しい(?)、ぽっちゃりとした男性のイラスト。

ヨガスタジオとしてはちょっと珍しい(?)、ぽっちゃりとした男性のイラスト。スタジオの扉やサイトで使用されている。

      -「ヨガの普及」が1つ目の理由ですね。2つ目の理由は何でしょうか?

「アウトドアでヨガをやると、気持ちよくって前向きになれることが2つ目の理由です。
室内でのヨガは、どうしても自分に向き合うレッスンになりがちです。ヨガに来る人は『ここが固い』とか『ここが痛い』とか、自分でダメだと思いこんでいる人が多いんです。それが、アウトドアに身を置くことで、まず『気持ちよさ』の方が先に来るようになります。『この空間は気持ちいい。自分の深呼吸のために用意されている』と、前向きな気持ちになれるんです」

      -珠数さんの『生活ヨガ研究所』以外のスタジオも、中之島でヨガをされているのですか?

「やっていますよ。最初の頃は、『珠数という人が中之島でやっているので、他のスタジオが行ったら悪いのではないか』という声もあったと聞いています。でも私はどなたが来られても、ウエルカムです。そもそも、それが目標でもありましたから。
私は当時、『中之島をヨガの聖地にする!』と吠えていました。今、まさにそのような状況になっています」

■一人ひとりが自発的に動くヨガ。それが自由で面白い。​

      -そのように多くの方が参加されているリバーサイドヨガですが、現在の生徒数は?

「コロナ前は1クラス80人以上になったこともありましたが、現在は15~20名ほどになっています」

      -多数の参加者に、珠数さんお一人でレッスンされるのは、大変ではないですか?

「大変ですが、私は基本的にしゃべっているだけなんです、『語り』なんです」

      -生徒さんの前で、ポーズを取ったりされないのですか?

「もちろんポーズもしますが、それだけなら私の物真似になってしまい、面白くない。もっと自発的に動いてほしいんです。隣の人と、全く違う動きでもいいんです。
だから、たとえば『風を触って』といってみます。風の触り方なんてバラバラじゃないですか。でも、それでいいんです。みんな自分の内側から動く、動きたいように動く、それが一番自由で面白いんです」

      -自発的に動けない人もいると思いますが…

「自由に動くことが苦手な人も、もちろんいますよ。そういう人には寝転んでもらいます。寝転べば周りが見えなくなります。すると恥ずかしさも和らぐので、『足を上げてみて』とかいってあげると、ちょっとずつ心がほぐれていくんです。
そうなると『もうちょっと動かしてみようか』と、だんだん大きく動けるようにしていくんです」

      -ヨガって、よくテレビで見るような、みんな同じポーズをするものだと思っていました。

「もちろんそれもありますが、みんなバラバラの動きのヨガもあっていいと思います。寝ているだけでもいいんです。わざわざ難しいポーズとかテクニックを使わなくても、芝生の上にゴロンと寝かしてあげるだけで、ガラッと変わる人もたくさんいます」

中之島公園の剣先でのリバーサイドヨガの様子。

中之島公園の剣先でのリバーサイドヨガの様子。寝転んで空を見るだけで、涙を流す人がいるそうだ。★

■1年に1度の「アウトドアヨガ祭り」は、過去2,000人以上の参加も。​

      -毎週のリバーサイドヨガ以外に、大きなイベントも開催されていますが、きっかけは?

「リバーサイドヨガを中之島でやる際に、水都大阪から恒常的にイベントをやるという条件が提示されました。それで今、『リバーサイドヨガFESTA』と『アウトドアヨガ祭り』の2つのイベントを行っています。
違いは、『リバーサイドヨガFESTA』は、生活ヨガ研究所が主催している事業であるのに対し、『アウトドアヨガ祭り』は、ヨガ仲間や友だち、インストラクター仲間と、『中之島にどんな景色を作ったら面白いだろう』と話し合い、全員がボランティアで作り上げているイベントであることです」

      -どれぐらいの規模のイベントなのでしょうか?

「今年(2023年)の『アウトドアヨガ祭り』は、10月28日(土)と29日(日)の2日間開催します。中之島公園全体を3つか4つのゾーンに区切って、朝から晩までみっちりとヨガをやります。
インストラクター仲間が、それぞれ生徒さんたちを連れてくるので、2日間で25から30クラスぐらいのレッスンを行います」

      -すごい人数になるのでは?

「最高で、2,000人を超えた時もありました。ただ参加者が増えると、ヨガに関係なく中之島に来られた方が、ちょっと居づらそうにされているので、申し訳ない気持ちになりますね。日常的に平和な景色を作りたいだけなのに、ヨガをする人があふれると、逆に異質な景色になっているように思えました。
参加される方からは、参加料をいただいているのですが、予算的にもなかなか厳しい状況です。警備の対応などはボランティアの手弁当だけでは限界があります。これからの運営については、今いろいろ考えているところです」

      -大変なご苦労だと思います。『リバーサイドヨガFESTA』はいかがですか?

「年に2回、ゴールデンウィークと9月に行っています。毎週やっている『リバーサイドヨガ』の延長線上にあります。こちらはゾーンを中之島と八軒家浜の2つにわけて、私と友だちのインストラクターを呼んでやっています」

『アウトドアヨガ祭り』の様子。過去に参加者が2,000人を超えたことも。大阪でのヨガ・フェスを代表する一大イベントにまで成長した。★(3点とも)

八軒家浜での『リバーサイドヨガFESTA』
八軒家浜での『リバーサイドヨガFESTA』

八軒家浜での『リバーサイドヨガFESTA』。★(2点とも)

■中之島は、今も生きている自然の島。この豊かさを感じに来てほしい!​

      -珠数さんにとって、中之島の魅力とは何でしょうか?

「インドにガンジス川という聖なる川があります。ヨガの修行でインドに行った時、ガンジス川の横にいる喜び、川に触れる喜びを感じました。それほど『水』とか『川の流れ』って、人の気持ちを見直させてくれたり、揺さぶってくれたりするものなんです。そういうこともあり、私は川に近い場所にすごく魅力を感じています。
あのガンジス川の感じに、中之島が似ているんです。雁木の雰囲気とか剣先の様子、ガンジスの沐浴場もあんな感じになっているんです。だから勝手に、『中之島はヨガの聖地』だといっています(笑)」

      -そんな『ヨガの聖地』で、これからどのようなことをやってみたいとお考えですか?

「今すでにやっていること、つまり『リバーサイドヨガ』、『リバーサイドヨガFESTA』、『アウトドアヨガ祭り』は、今後も継続してやっていきます。
新しくやりたいことは、中之島公園で寝泊まりすることですね。公園で朝を迎えたい」

      -寝泊まり!?

「中之島で見る朝陽は素晴らしいんです。このスタジオに泊まり、太陽が昇る前にスタジオを出て、中之島でご来光を見るという早朝プログラムはやっているのですが、中之島で寝て、夜明けとともに目覚めるというのを、やってみたいと思っています」

      -それは楽しそうですね。中之島って、いろんな自然と触れられる場所なんですね。

「ある方から、『中之島って、生きているんだよ』とお聞きしたことがあります。中之島はもともと砂が堆積してできた島だそうですが、今でも土を浚渫しないと、だんだん上流方向に大きくなっていくらしいんです。そうなると船の運航に差し障るので、浚渫しているのだとか。その『生きているんだ』という感覚が面白くって、何か好きなんですよね…」

      -コンクリートに囲まれているけれど、生きている島…。

「そう、今でも中之島って、生きている自然の島なんです。その生きている島に、みんな乗って生きている。動植物も乗って生きている。
仕事に疲れたので、どこか自然を求めて山とか海に行くのもいいでしょう。でも私は、『中之島でいいんだよ、ここにこんな素晴らしい場所があるよ』といいたいのです。
中之島は、豊かなところです。植生も豊か。私やシティサップの奥谷さん※など、中之島を舞台に活動するプレーヤーも豊かで多士済々です。遠くに行かなくても、中之島でいくらでも面白いことができるよといいたいですね」

中之島公園の芝生広場で一人、ヨガを楽しむ珠数さん。

中之島公園の芝生広場で一人、ヨガを楽しむ珠数さん。

中之島公園の芝生広場で一人、ヨガを楽しむ珠数さん。大きく広がる空の下でのヨガは、本当に気持ちよさそう!

※シティサップの奥谷さん・・・「中之島人を訪ねて」で取材させていただいた、日本シティサップ協会会長の奥谷崇さん。
その際の取材内容は、下記。

大阪の街中に、こんな「非日常の世界」があるなんて!
https://www.nakanoshima-style.com/walk/7445

<取材レポート>

ヨガへの情熱と、「働きたいという気持ちを応援したい」という熱意をひしひしと感じさせてくれる珠数さんは、ヨガ以外にも樹木医や森林インストラクターなど、自然と触れ合う仕事に従事されています。それらの経験をもとにしたヨガは、私たちの中にあったヨガのイメージを超えたものでした。機会があれば、リバーサイドヨガを体験してみたいと思いました。みなさんもいかがですか?

生活ヨガ研究所
住所 〒540-0031 大阪市中央区北浜東1-29 北浜ビル2号館 7F
TEL 06-6949-3553
営業時間
定休日
下記レッスンスケジュールをご確認ください。
https://seikatuyoga.com/schedule/
アクセス 〇京阪本線・地下鉄天満橋駅 徒歩下車8分
〇京阪本線・地下鉄北浜駅 徒歩10分
ホームページ https://seikatuyoga.com(生活ヨガ研究所)
https://www.outdoor-yoga-japan.com/(アウトドアヨガ祭り)